***** 北アフリカ戦史1940−41 *****
イタリアは、20世紀初頭にキレナイカ・トリポリタニアという北アフリカ植民地を獲得し、30有余年に亘って平和裏に入植を進めてきた。西に隣接するエジプトは英帝国のアフリカにおける最も重要な領土であるが、双方に別に領土上の係争を抱えているわけでもなかった。
そもそもムッソリーニが政権を奪取して以来のイタリアは、ファシスト国家ではあるものの、国内の産業は活性化し、国民のモラルは上昇し、暴力的な体質は残しつつも、それまでの脆弱な政権に比べて、明らかにイタリアの実情に合致した「善政」を敷いた政権であったのだ。
英国首相のチャーチルでさえ、1930年代にイタリアを訪問した際、「もし私がイタリア人だったら、ドゥーチェ(ムッソリーニ)万歳を叫んだであろう。」とコメントしている。多少野卑で小児的な妄想癖の持ち主ではあるが、反共の闘士として混乱するイタリアのたがを締めなおすことに成功したムッソリーを、英帝国は大いに買っていたのである。
ムッソリーニがナチスドイツの勝利に嫉妬して、無謀な戦争に突入するまでは。
「北アフリカの闘い」は、ムッソリーニの軽挙妄動によって、一方的に始まった戦争である。
1940年の英国は、同盟国フランスのあっけない脱落によって、欧州でドイツに敵対するほぼ唯一の存在となり、孤立無援であった。夏の熾烈な「Battle of Britain」を劣勢な空軍の奇跡的な頑張りによって支え、かろうじて英本土侵攻を免れたものの、圧倒的な兵力差によって、英国がいつまで持ちこたえるかは、かなりの疑問符だったのである。それでなくとも、英国は世界中に植民地を抱えており、その防衛の兵力を満遍なく捻出することは、ほぼ不可能に近かった。枢要地エジプトの防衛のためには、英連邦の一員であるインドやオーストラリアからはるばる軍隊を派遣してもらわねばならない状況だったのだ。
こうした状況では、例え敵国イタリア軍がエジプトの西部国境に兵力を集めていても、先制攻撃を行う余裕など無く、ひたすら乏しい兵力をやりくりして、防衛のための計画を練り上げていくくらいしか、やるべきことは無かったのである。
では、何故イタリアはエジプト侵攻を決意したか。ようするにイタリアも華々しい戦果を上げたかった、それだけのことなのだ。
フランスの負け戦を見て、バスに乗り遅れまい、と慌てて連合国に宣戦布告したイタリアではあったが、フランスはあっけなくドイツに降伏。英国本土侵攻を単独でやりきれるほどの実力はない。イタリア領土と接した英国領で、戦略的な価値の高いエジプトの攻略こそが、イタリアが戦争の勝利者として講和会議の席に胸を張って出席できる、唯一の「実績」となる。そうムッソリーニは判断したのである。
前述した、防衛側の英連邦軍の苦しさもイタリアは承知していた。やはりイタリア領である東アフリカと西部のリビアからエジプトを挟撃すれば、苦も無くエジプトはイタリアのものとなる、とムッソリーニは夢想したのである。
当時キレナイカの国境に軍を集結していた、イタリア第10軍の司令官グラツイアーニ将軍は、それほどの夢想家ではなかった。彼は列下の自軍の装備状態が全く充分でないことを良く認識していた。歩兵の数だけは多いが、その大半は移動用の車両さえ与えられておらず、武器は第一次大戦の頃からそれほども近代化されていない。自動車の数が絶対的に不足することから、エジプト国境までの長大な兵站線の確保も充分とは言えない。
厳しい砂漠の環境のもとで、不充分な装備で戦闘に追いやられる兵士達の士気は一部のエリート部隊(ベルサリエリ)を除いては、全般的に低い。ましてや、第10軍を構成するいくつかの歩兵師団は、植民地リビアの現地人を無理やりかき集めた軍隊であった。こうした兵力に小規模とはいえ、近代的な自動車化兵力を持つ英連邦軍を果たして攻撃殲滅する能力があるだろうか。
悲観的な現実に直面したグラツイアーニ将軍は、ムッソリーニの度重なるエジプト侵攻の早期実施命令をのらくらとかわし続けていたが抗しきれなくなり、結局1940年の9月になって、ついにエジプト国境を越えた。
しかし、国境からわずかに進出したシディ・バラニで進軍をストップし、にわかに防御陣地構築に取り掛かる。こうした工兵仕事は、イタリアの軍隊の最も得意とするところであり、古代ローマの時代からの伝統でもあった。他領土に侵攻した軍隊が会敵もしないうちに、やおら座り込んでタコツボを掘り始める、などというのは近代戦とは言い難い。しかし武人というよりはむしろ政治人間であったグラツイアーニ将軍にとっては、配下の数は多いがひ弱な軍隊という現実と、解任までほのめかしてエジプト侵攻に駆り立てるムッソリーニの板ばさみ状況を打開する、おそらく唯一の妥協案であったのだろう。イタリア軍は、シディ・バラニで越冬の態勢に入ったまま動かなかった。
対する英連邦軍はこの一部始終を的確に把握し、乏しい兵力ながら、イタリア軍をエジプトから追い出すための攻勢計画を立案していた。砂漠の経験に富むオコーナー将軍は、シディ・バラニに座り込んで動かないイタリア軍を小兵力で包囲殲滅する、という大胆な作戦に出ようとする。
北アフリカの闘いでの最も特徴的な戦術要素は、完全な戦線を構築することがほぼ不可能な点である。北側の海岸線から戦線をどれだけ南の砂漠地帯に向かって延ばしても、まるで大海原のように砂漠は無限であり、補給が不可能となって陣地は確保できない。従って、機械化されていない軍隊は、海岸地帯に貼り付くしかない。
一方で、北アフリカのどの場所でも、砂漠は南方に向かって開かれており、歩兵が踏破することは難しいが、機械化車両部隊にとっては、常に、敵の背後に入り込むことが可能なのだ。
つまり他の戦場以上に、砂漠地帯での戦闘では、機械化部隊の役割が重要であり、機械化部隊なくしては、砂漠の戦闘でイニシアティブを取ることは不可能なのだ。
オコーナーは、この砂漠戦のセオリーを理解した将軍であり、比較的小部隊ながら、充分に機械化された自動車化歩兵と、空軍および砲兵の支援を得て1940年12月、「コンパス」攻勢を開始した。海岸地域から内陸部にかけて点在するシディ・バラニ周辺のイタリア軍キャンプの間隙をすり抜け、英連邦部隊は、イタリア軍の背後に進出。これとは別に正面攻撃に投入された英軍の新兵器マチルダII歩兵支援戦車は、イタリア軍の対戦車火器では全く歯が立たないことを証明。背後からの攻撃を受け、包囲されたことを悟ったイタリア軍は、急速にパニックに陥った。
攻勢開始してわずか3日で、イタリア軍は算を乱しての壊走状態となり、その退路を断とうとする英軍部隊と西に向かっての競争が始まる。ここでも機械化の遅れているイタリア軍歩兵部隊の大部分は、その動きの鈍さから各個包囲されわずかな抵抗の後、投降していくしかなかった。
キレナイカに逆進入した英連邦軍は、中核のオーストラリア軍を先頭に、国境沿いのソルームを皮切りに、バルディア、トブルク、メキリ、ベンガジと次々にキレナイカの要衝を占領。そして、英軍の囲みからかろうじて逃れた残存イタリア軍の主力部隊を、1941年2月ついにベダフォムに捕捉したのである。この包囲戦もまたもや英連邦軍の圧勝であった。イタリアの植民地キレナイカ全域から、イタリアは放逐され、西隣のトリポリタニアの命運も危うくなった。
英連邦軍の一撃で、北アフリカのイタリア軍は、ほぼ雲散霧消してしまったのである。1939年の第二次大戦勃発以来、苦しい緒戦の闘いを続けてきた英国にとって初めての、目の覚めるような大勝利は、一方で相次ぐ戦勝に有頂天となっていたドイツに冷水を浴びせるようなショックを与えることとなった。地中海方面の「柔らかな下腹」をそのままに放置しておいては、ヒトラーの本来の戦争目的(共産国家ロシアを瓦解させ、ゲルマン民族の東方への生存圏獲得を果たす)に支障をきたす。足手まといの盟邦イタリアの不始末は大いに迷惑であるが、放置はできない。
こうしてヒトラーは、アフリカ戦線確保のための最低限の手当てとして、2個機械化装甲師団のアフリカ派遣を決意。司令官として、1940年のフランス戦役で第7装甲師団を指揮し、際立った戦功を遂げたエルヴィン・ロンメルを指名した。ロンメルは1941年の2月に初めて北アフリカの地に着任する。
望外の大勝利により、一気にキレナイカを席捲した、英連邦軍であるが、もともと兵力に限りがあることに加え、あまりにも簡単に前進したため、気づいてみればなんと兵站線は、攻勢開始地点から1500kmのかなたへ伸びきってしまっていた。加えて、年初に侵攻してきたイタリア軍を果敢に迎え撃って善戦する、ギリシャに対して、英国は援軍を送る必要があった。本国防衛のために余裕の無い英軍にとっては、同じ地中海方面軍からの兵力捻出を考えねばならない。もはやエジプトを失う危険は去ったとの判断から、2個師団が引き抜かれギリシャに向かう。にわかに、英連邦軍の北アフリカにおける優位は色褪せていった。
ロンメルが第一波の増援機械化車両群と共にトリポリに到着した頃、兵力のバランスは双方の気づかぬところで、すでに逆転を始めていたのである。
渋るイタリア軍を引きずるようにして、ロンメル主導の枢軸軍の反撃が開始された。1941年3月末にエルアゲイラから進撃したドイツ軍は、瞬く間にベンガジを奪回。メキリ、ガザラと急進を続け、キレナイカの重要な港であり要塞である、トブルク前面には、早くも4月中に達した。
事態の急展開に眼を疑ったのは、英連邦軍だけではなく、散々に負け癖のついたイタリア軍も同様だった。あれだけイタリア軍を完膚なきまでに叩きのめした敵が、こんなに脆くも撤退を重ねるとは....大規模な攻勢はリスクが大きいとしてロンメルに反対してきたイタリア軍司令部も、この攻勢を追認せざるを得なくなる。キレナイカ全域の回復が、枢軸軍の当面の作戦目標となった。
ロンメルは一気呵成に要衝トブルクを陥れようと、おっかなびっくりで追随するイタリア軍に構わず、ドイツ軍だけで、正面攻撃に踏み切った。しかし、要塞内に踏みとどまったオーストラリア軍は、巧みな防御戦で、ドイツ戦車隊の前進阻止に成功。ロンメルは、トブルクの奪回に失敗する。
歴史を振り返ってみれば、ここは北アフリカ戦役の重大なターニングポイントだった。以後1年以上に亘って、トブルク要塞は、枢軸軍の左わき腹に刺さったトゲのような存在となり、ロンメルは、エジプト侵攻の試みを、常に不充分な補給体制で実施せざるを得なくなる。もし、この1941年4月時点で、トブルクが枢軸軍の手に戻っていたら、補給線ははるかに短縮され、かつトブルク包囲のための兵力捻出は考えずに済み、1941年の夏には、戦場はエジプト領内に移っていたであろう。その年の暮れまでに、枢軸軍がカイロ・アレキサンドリアに入城していた可能性は否定できない。
トブルクを電撃的に奪回するとの目論見は頓挫したものの、遅れて駆けつけたイタリア軍歩兵師団にトブルク包囲を委ねて、ドイツ機械化師団は国境に向かって更に前進する。後をイタリアの自動車化部隊が追った。5月に枢軸軍はソルーム南方の国境の要衝、ハルファヤ峠に到達。
両軍の体制は、依然としてトブルクに立てこもる英連邦軍の存在を除いては、ほぼ戦前の状態に戻ったことになる。しかしこの状態は永遠のパリティを意味するものでは全くない。砂漠の戦争では、戦線の膠着という現象は起き得ない。海戦のように、敵の戦闘兵力を無力化すること以外に、アフリカでの戦役を勝利したことにはならないのである。
電撃的な緒戦でのイタリア軍駆逐の後に訪れた、キレナイカでの敗報は、英軍戦争指導部を震撼させた。4月にバルカン・クレタ島を失い、加えて再びエジプトの確保に赤信号が灯ったのである。
しかし首相のチャーチルには勝算があった、前年のオコーナー攻勢の際に無敵の強さを誇ったMatilda II 歩兵支援戦車が、大量にエジプトに陸揚げされつつある。リスクを冒して最短ルートとなる地中海を無事に通過した補給船団「タイガー」の積荷は、このMatilda IIであった。英連邦軍最高司令官ウェーベルは攻勢を決意する。
国境に主力を配置してエジプト侵攻を窺う枢軸軍の先手を取って、包囲されたトブルクの解放を狙う「バトルアクス作戦」が発動されたのは、1941年6月15日。
英軍攻勢の矛先は国境のハルファヤ峠。そして内陸部のフォート・カプッツオ周辺。いずれも、その背後の港町ソルーム、バルディアを第一目標とし、そこから海岸道路を西に進撃して、トブルク外郭線に到達する。これが、英連邦軍の作戦計画である。
英軍戦車隊は自信満々であった。枢軸軍が装備するもっとも強力な、ドイツ軍の50mm Pak38対戦車砲でも、Matilda II の前面装甲は貫通できない。ましてや同じくドイツ軍の37mm対戦車砲や、イタリア軍の47mm砲では用を為さない。ということは、これらを主砲として搭載する、枢軸軍のいかなる戦車も、Matilda II には歯が立たないということなのだ。
歩兵支援という任務上、鈍重な機動力しか持たない戦車ではあるが、行く手を阻むものは何も無い。英軍は、ハルファヤ峠に向かって正面攻撃をかけた。
ドイツ軍はすでにMatilda II の存在には気づいていた。そしてこの恐るべき怪物への対処案も準備していたのである。それは、大口径の88mm高射砲を、対戦車用に使用することであった。
そもそも高射砲は、高空を飛ぶ飛行機を狙い打たねばならないので、打ち出される弾丸の初速が極めて早く、ストレートな弾道が保証される。従って徹鋼弾さえ装填すれば、簡単に対戦車用の有効な武器となる。しかし、通常の対戦車砲のように、極力姿勢を低く、コンパクトにし、かつ動き回る戦車を仕留めるために、砲自体を軽量化して機動性を付与するといった設計条件は何一つ加えられていない。馬鹿でかくて目立ち、車輪も持っていないために動かすことも大変な苦労といったやっかいな砲ではあったが、他に対抗できる兵器は無い。
ドイツ軍はこの砲の短所を補うために、砲身が地面すれすれとなるように、陣地を掘り下げ、
Matilda II の来襲を待ち構えたのである。
88mm‘対戦車砲’の存在を知らずに、ノコノコと正面攻撃をかけた英軍戦車隊には災厄であった。たちまち10数両のMatilda II が停止炎上し、英軍の攻撃は頓挫する。この戦闘により、この世の地の果て、北アフリカの国境に近い,単なる地名でしかなかったハルファヤ峠の名前は、英国メディアによって、一躍有名となった。彼らはこの峠を「Hell Fire(地獄の劫火)峠」と呼んだのである。
内陸部のシジ・オマールからカプッツオ方面の戦況は英軍にとってまだましであった。この戦区の守備はもっぱらイタリア軍に委ねられており、Matilda II は投入されていないものの、装甲は薄いが機動性に富む、英軍機甲部隊を迎え撃つには、兵力・火力・モラルの面で、イタリア軍では荷が重かった。
英軍機甲部隊は、オアシスを点で守る枢軸軍の守備の間隙に進入。前年のシディ・バラニ殲滅戦の再現を狙う。しかし今回は、枢軸軍守備の背後に、DAKの機甲部隊が潜んでいた。
ここで若干戦況の説明を離れて、彼我の主力兵器である戦車について触れたいと思う。
この方面での英軍主力の戦車は、機動性の高いクリスティ型サスペンション構造を持つ、A13 巡航戦車。そして、タイプとしては若干旧式なA9およびA10 巡航戦車である。また偵察用途に使われる軽戦車ヴィッカースMk IVも、この時点ではまだ第一線使用されていた。
英軍の戦車開発思想は、第一次大戦当時の歩兵支援を第一としてきたが、(Matildaは、その申し子のような存在である。) それとは別に、敵の戦車と渡り合えるだけの機動性を要求される、いわゆる巡航戦車(Cruiser)の開発とをはっきりと区別していた点が特徴である。
巡航戦車は、敵国の戦車とほぼ同等な、火力・防御力・機動力を有することが基本スペックとされた。事実、前述のA9、A10、A13は全て、2ポンド(40mm)対戦車砲を搭載しており、前面装甲は20mmと、ほぼ対抗するドイツ・イタリア軍の主力戦車と比較して遜色は無い。しかし実際に戦場へ投入された結果、故障が多く、戦闘でも明らかに劣勢に立たされた、との評価が固定している。
対する枢軸軍の主力戦車はドイツの3号戦車とイタリアのM13戦車である。
いずれも37−50mm級の主砲を備えた中型戦車で、特にドイツの3号戦車は、機械的な信頼性が高く、優れた稼働率に定評があった。反面イタリア軍の中核となったM13は、英軍戦車に比べても装甲が薄く、47mm主砲のパンチ力は侮れないが、防御力の点で他国の機械に及ばない。
この他、ドイツ軍には、75mm榴弾砲を装備した4号戦車が装備され、歩兵支援に加えて対戦車戦闘にも参加した。また軽量の2号戦車、1号戦車も数の上では、まだ大きな戦力であったが、さすがに英軍戦車とまともには対抗できず、もっぱら威力偵察のような任務に回されている。
戦況に戻る。
ソルームに進出し、ハルファヤ峠の孤立を企図する英連邦軍を、ドイツ・イタリア機甲部隊が横撃した。北アフリカで初めてと言って良い、激しい戦車戦が展開され、双方に大きな損害が出た。そしてソルーム前面で英軍の攻勢は阻止されたのである。トブルクは余りにも遠い。英軍の「バトルアクス攻勢」は失敗した。ウェーベルは解任され、オーチンレック将軍がその後を引き継いだ。
この6月の激突でお互いに補給を食いつぶした両軍は、しばらくの間攻勢を取ることが難しくなる。枢軸軍の補給はイタリア本土から地中海を南下して、トリポリに入る船団によって賄われている。海と空から常に英軍の攻撃を蒙るおそるべき危険の海、地中海。そこを何とか無事にくぐり抜けたとしても、一旦揚陸された物資は、2000Kmかなたの戦場まで輸送されねばならない。
一方の英連邦軍とて、状況はそう楽観できるものではない。彼らの英本国からの補給ルートは、
地中海を突っ切る、最短ではあるが、よりリスクの大きなコースと、大きくアフリカの南端、喜望峰を迂回して紅海からエジプトを目指すコース。後者の場合は、時間がかかる上に、大西洋でUボートに狙われる危険があり、いずれも問題含みの兵站線であった。
1941年7月から10月まで、北アフリカ戦線で、両軍の大きな衝突が起こらなかったのは、この補給の維持に、両軍が問題を抱えていたことが最大の要因である。ただし、より正確に述べるならば、英連邦軍は当時の実力として、確かに攻勢を再度始めるだけの余力は11月まで無かった。北アフリカが彼らにとって、唯一の地上戦を行っている場所であったにも関わらず、である。
しかし、一度補給と戦力の充分な整備が完了したら、英軍としては必ず再度の攻勢に出るつもりであった。目標は再びトブルクである。
対する枢軸軍としては、地中海は確かに危険ではあったが、その気になれば充分な補給を行い、英連邦軍の体制の整わないうちに、先手を取って攻勢に出ることは可能な状況だった。それが実現しなかった原因は唯一の理由に帰せられる。1941年6月22日に開始された「バルバロッサ作戦」、ロシア侵攻である。冬の来るまでにロシアを屈服させるために、ヒトラーは全てをロシアに注ぎ込む決意であった。当初のドイツ軍派遣目的どおり、北アフリカのイタリア領が確保されている限り、今北アフリカで攻勢に出る必要は全く無い.結局11月になっても、枢軸軍の戦力拡充は思うようには進展しなかった。
11月に開始された英連邦軍による「クルーセーダー」攻勢と、これへのカウンターリアクションとしての枢軸軍の国境突破への試みは、おそらく彼我の総合的な実力がほぼ拮抗した中で行われた、北アフリカ戦役での頂点となる戦闘であったように思う。作戦の規模は6月の「バトルアクス」よりもはるかに大きく、目まぐるしく攻守ところを変え、両軍はトブルクを巡ってパンチの応酬を繰り返した。
6月時点ではまだ戦場に現れていなかった、両軍の新兵器もこの「クルーセーダー」攻勢の時に、多数がデヴューした。
英連邦軍では、米国のレンドリース法に基づき、米国製「ハニー」スチュアート軽戦車、A13の発展型であるクルーセーダーMk1巡航戦車が攻勢の主力として大量に到着した。そして、Matildaの後継車として、A10を改良した歩兵支援戦車ヴァレンタインも、少数が間に合った。
対する枢軸軍では、3号戦車に長砲身50mmを搭載した3号スペシャルが初めて登場した他、イタリア軍もM13の車体に75mm砲を載せた自走砲セモヴェンテを投入した。
相対的には主力戦闘車両の規模において、英連邦軍はかなり優位に立っていたが、他軍に比べて卓越したドイツ軍戦車の性能、集中戦術、戦場車両修理能力、などの要素を加味した場合、この戦闘の帰趨は全く予測のできない展開となる運命にあった。
1941年11月16日、英連邦軍の機甲師団はキレナイカとエジプト国境を砂漠の内陸部奥深くの地点から越え、西へ進出した。「クルーセーダー作戦」の発動である。
奇しくも、この全く同じタイミングで、ロンメル列下のDAK(ドイツアフリカ軍団)とイタリア軍は、トブルクを攻略すべく、総攻撃の布陣についたばかりだったのである。先鋒を担うDAKの2個装甲師団(第15および第21機甲師団)は、トブルクの南シジ・レゼグ周辺に位置し、そのさらに南側ビルエルグビ周辺には、イタリア軍虎の子のアリエテ戦車師団がいた。
アリエテ機甲師団の編成は以下の通り。
第132装甲連隊
第7戦車大隊
第8戦車大隊
第9戦車大隊
第8ベルサリエリ自動車化連隊
第5ベルサリエリ大隊
第12ベルサリエリ大隊
第3重火器大隊
第132自動車化砲兵連隊
自動車化工兵大隊
自動車化対戦車砲大隊
師団支援部隊
トブルクへの攻撃を開始する寸前であったその時、突然、枢軸軍の背後にアラームが鳴り響いたのである。英軍機甲部隊の矢面にまともに曝された、アリエテ機甲師団からであった。"ビルエルグビ付近で、英軍機甲部隊と交戦中。敵は大部隊でトブルク方面を目指す模様。"
しかしロンメルは当初、この情報に動かされなかった。英軍の行動を小部隊による威力偵察程度のものと判断し、予定のトブルク攻撃を実施しようとしたのである。このため緒戦における枢軸軍の対応は遅れることになった。ロンメルの犯した誤謬である。
砂漠の中の小さな涸れ川であるビルエルグビでは、イタリア軍と遭遇した英連邦軍の機甲部隊との間で激しい戦車戦となった。この方面に約120両のM13中戦車を展開していたアリエテ師団は、ジョバンニ・ファシスト大隊の支援を受けて果敢な抵抗を行った。しかし新鋭のクルーセーダー戦車を中心に約200両を投入した英軍の攻撃を支えきれず、イタリア軍は後退して再編成を企図する。英軍主力は果然トブルクに向かって北進を開始。同時に海岸道路に近いハルファヤ峠には、再び英連邦軍の歩兵部隊が攻撃を加えてきた。これに呼応して、トブルクの英軍守備隊の突出も始まる。
北アフリカの全戦線で本格的な敵の攻勢が始まったことを、漸くロンメルは悟る。背後に英軍の戦車群が迫っていた。
この時期、DAKの2個機甲師団(第15、第21)は、3号戦車を中核として、約240両の戦車を保有していたが、英連邦軍は歩兵支援戦車を含めて700両以上を作戦に投入していた。その内の約400両が、DAKとの戦車戦に向かっている。ビルエルグビで戦力の約半数を失ったイタリア軍アリエテ師団も戦闘に参加した。
両軍主力の激突はシジレゼグの飛行場周辺で始まった。この時期の戦車は両軍ともに、敵の主砲に対しての防御力が充分ではない。ノーガードの殴り合いとなった戦車戦で夥しい数の車両が破壊された。また無理な戦場での機動で、故障を起こして動けなくなった戦車も多数にのぼった。
ハルファヤ峠では、枢軸軍の守備隊が頑強な抵抗を続け、また包囲を破ろうとして突出してきたトブルクの英連邦軍歩兵部隊も、陣地を固めたイタリア軍戦線を破ることが出来ずにいた。
全ての勝利の鍵は、シジレゼグ周辺での機動戦の結果に委ねられる。
そして、最初に怯んだのは攻勢をかけたはずの英連邦軍であった。余りにも甚大な戦闘車両の被害のために、我慢比べに耐えられなくなった前線の英軍司令官は一時後退を決定。戦場に遺棄された多数の車両はDAKの押さえるところとなり、稼動可能な戦車が二桁にまで落ち込んでいたDAKは、これで息を吹き返す。
ロンメルはこの機会に、一気にエジプトへの逆攻勢を目論み、国境への前進を命じた。イタリア軍アリエテ戦車師団も随伴する。
しかし今回ばかりは英連邦軍オーチンレック将軍の頑張りがものを言った。エジプトへの撤収、再編を具申する配下の司令官を押さえつけ、甚大な被害を受けた機甲師団を再度、DAKに向けさせたのである。砂漠の中に集積された膨大な補給物資が枢軸軍に気づかれること無く無傷で残っていたことも幸いした。DAKとアリエテ機甲師団の国境に向かっての突進は、思うように進まず、減りつづける主戦力を補うための補給も滞った。
ついに12月7日、(真珠湾攻撃により、日本が戦争に突入した日でもあるが)ロンメルは戦線の撤収を決意する。さもなくば、アフリカの枢軸軍全軍が崩壊する危険を悟ったのである。再びキレナイカ全域を失うことで、ムッソリーニの政治的な立場がぐらつく事を恐れたイタリア軍首脳部は強硬に撤退に反対した。しかしDAKが撤退すれば、イタリア軍のみで、キレナイカを支える実力は無いことも彼らは知っている。トブルクの包囲は解かれ、枢軸軍の全面的な撤退が開始された。孤立無援ながらもハルファヤ峠で最後まで抵抗したイタリア・ドイツ混成部隊が降伏したのは、1942年1月17日のことである。
「クルーセーダー攻勢」は、英連邦軍の勝利となった。しかしその勝利は、つかの間のもので、キレナイカから撤収を余儀なくされた枢軸軍は、1942年に年が改まると同時に、再度先手を取って逆攻勢に出る。そうして5月のトブルク前面での激戦(ガザラの闘い)を制した枢軸軍は、ついにトブルクの奪回に成功するのである。
ロンメルは元帥に昇進し、その名声は頂点に達する。多くのイタリア軍の将軍達も、このお相伴に与った。
しかし、まさしくこの日は「終わりの始まり」だったのである。戦争の全体バランスは大きく傾き、枢軸軍がアフリカ戦域での最終勝利者となる機会は永久に消え去っていた。ロシア戦線に膨大な物資と兵力を吸い取られつづける枢軸軍には、まともな補給は期待できなかった。
トブルク陥落によって残された英連邦軍の物資を頼りに再度エジプトに侵攻したDAKとイタリア軍は、アレキサンドリア前面の最後の英軍陣地に進撃を阻まれ、4ヶ月の対峙の後、圧倒的な兵力にものを言わせた英連邦軍の攻勢の前に敗れ去る。
その戦場の名をエルアラメインといった。
以上
[参照]
1941.9月時点枢軸軍編成
XX Corpo d'Armata
Generale di Corpo d'Armata Gastone Gambara
101st Division Trieste
65th Infantry Rgt
66th Infantry Rgt
9th Bersaglieri Rgt
21st Artillery Rgt
132 Division Ariete
32nd Tank Rgt
132nd Tank Rgt
8th Bersaglieri Rgt
132nd Artillery Regiment
XXI Corpo d'Armata
Generale di Corpo d'Armata Enea Navarrini
17th Division Pavia
27th and 28th Infantry Rgts
26th Artillery Rgt
25th Division Bologna
30th and 40th Infantry Rgts
205th Artillery Rgt
27th Division Brescia
19th and 20th Infantry Rgts
55th Artillery Rgt
102nd Division Trento
61st and 62nd Infantry Rgts
46th Artillery Rgt
Panzergruppe Afrika
General der Panzertruppe Erwin Rommel
Deutsches Afrikakorps
Generalleutnant Ludwig Creuwell
15th Panzer Division
8th Panzer Rgt
115th Rifle Rgt
33rd Artillery Rgt
21st Panzer Division
5th Panzer Rgt
104th Rifle Rgt
155th Artillery Rgt
Division z.b.V. Afrika
155th and 361st Rifle Rgts
55th Division Savona (Italian)
15th and 16th Infantry Rgts
12th Artillery Rgt