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| 所在地 | 大分県大分市荷揚町 |
| 交通機関 | JR日豊本線 大分駅下車 徒歩10分 |
| 別 名 | 府内城・大分城・荷揚城・白雉城 |
| 略 歴 |
慶長2(1597)年、豊後の国主、大友義統が、豊臣秀吉の朝鮮出兵にあたって卑怯な振舞いがあったとして、領地を没収された。 豊後国は分割され、複数の大名に分け与えられた。(九州の諸国には珍しく、豊後国内に多くの近世城郭が存在するのはそのためである。) 大友氏の本拠地府内に封じられたのは、石田三成の女婿であった福原直高であった。 直高は、大友氏館が極めて中世的であり、大友色が強いため、この館を廃して新たに大友氏が南蛮貿易品を荷揚げした、海岸沿いに築城を開始した。 慶長4(1599)年、府内城の一部が完成し、直高が入城を果たしたが、築城作業は続行されていた この年、石田三成の後ろ盾であった太閤豊臣秀吉が死去した。上方では五大老筆頭徳川家康と、石田三成を中心とする奉行職の対立が深まった。 福原直高は府内城入城1ヶ月にして、家康によって朝鮮役中の軍監として不正があったとして減封、府内城を召し上げられた。 福原直高に替って府内城主となったのは、早川長敏であったが、翌慶長5(1600)年に発生した関ヶ原合戦で、西軍に付いたため改易となった。 慶長6(1601)年、関ヶ原合戦で東軍に付いた竹中重利が、豊後高田よりが35000石で入封した。竹中氏は豊臣秀吉の軍師、竹中半兵衛の子息である。 この間築城作業は続けられ、翌慶長7(1602)年、5年の歳月をかけて、4層の天守を戴く府内城が完成した(実際はこの後も改修が続けられた)。 寛永11(1634)年、竹中氏2代重義が長崎奉行の時、数々の不正を行なったなどとして切腹の上改易となった。 替って日根野吉明が下野壬生より入城するが、明暦2(1656)年、無嗣断絶となり、府内城は幕府の管理下に置かれ、2年毎に豊後諸藩の城代が入れ替わり置かれることとなった。 万治元(1658)年、豊後高松より松平(大給)忠昭が22000石で入封、以降10代210年に渡って松平氏の居城となり、明治維新を迎えている。 この間、寛保3(1743)年には、天守などを焼失しており、これ以後天守は再建されなかった。 |
| 現 況 |
城址は大分市の中心部にあり、大分城址公園となっている。 内掘がほぼ完全に埋め立てられており、その上に近代的な文化会館が建てられているため、本丸の遺構は天守台と二重櫓台しか残されていない。 その一方、二之丸に当たる西之丸・東之丸及び山里丸は、良好な形状で残されており、人質櫓、宗門櫓など現存櫓とともに、櫓や門などが復興されている。 なお、復元櫓の櫓台がコンクリート剥き出しであったり、太鼓門の形状が旧状と大きく異なっているのは、昭和の復元の成せる技(復元ではなく復興である)であろう。 |
| 山里丸 |
山里丸は主郭部北側に設けられた郭で、北側に二棟の二重櫓を置き、西は土橋で北之丸と繋がっていた。 主郭部西之丸とは、廊下橋によって結ばれており、現在この廊下橋が復元されている。 なお、現在曲輪内は松栄神社境内地となっている。 |
![]() 山里丸西面 石垣 |
![]() 松栄神社拝殿 |
![]() 山里丸東面 石垣 |
![]() 山里丸東面 石垣 |
![]() 山里丸東北角 二重櫓台石垣 |
![]() 山里丸北面 石垣 |
![]() 山里丸北面 石垣と堀跡 |
| 帯曲輪 | 府内城は海岸に面しており、この面の防御のため、近世の海城には珍しい帯曲輪が設けられていた。 |
![]() 帯曲輪北端石垣 |
![]() 帯曲輪北面石垣 |
![]() 帯曲輪北面石垣 |
![]() 帯曲輪北東側石垣 |
![]() 帯曲輪北東側石垣 |
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![]() 帯曲輪東側石垣 |
![]() 帯曲輪東側石垣 |
![]() 帯曲輪東側石垣 |
![]() 帯曲輪東側石垣 |
![]() 帯曲輪東側 折部分の石垣 |
![]() 帯曲輪 |
![]() 帯曲輪南端石垣 |
| 馬出 |
本丸北側に置かれた区画で、府内城の大手である。 一見すると帯曲輪のようにも見えるが、馬出の役割を持たせていたものと考えられる。 この曲輪の東西にそれぞれ喰違い虎口を設けて、西之丸・東之丸への進入を防いでおり、三之丸に向けては渡り櫓門である太鼓門を置いていた。 この太鼓門には東之丸から横矢が掛かっており、厳重に防御されていた。 |
![]() 太鼓門 |
![]() 太鼓門 |
![]() 内郭 |
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