帝國博物学協会

豊後國
杵築城
 所在地 大分県杵築市大字杵築337-1
 交通機関 JR日豊本線 杵築駅下車 大分交通 杵築ターミナル下車 徒歩10分
 別  名 杵築城・木付城・勝山城・台山城・臥牛城
 略  歴 建長2(1250)年、豊後の守護、大友親秀の6男親重が、鎌倉幕府より豊後速見郡武者所として八坂郷木付荘に3500貫で封じられた。
親重は、地名の木付を採って氏とし、木付親重と称した。これが、木付氏の始まりである。
応永元(1394)年、木付氏4代頼直が、現在の城山に築城して居館したのが、木付城の始まりである。
16代鎮直は、天正15(1587)年の島津氏北進時に、この木付城で、新納武蔵守忠元率いる島津軍の猛攻を受けたが、寡兵にもかかわらず善く守り、遂には島津軍を撃退している。
文禄2(1593)年、主家大友義統が文禄の役の際に、卑怯な振舞いがあったとして改易された。17代木付統直は、帰国の途路にこの報に接して自刃してしまった。
国主であった大友氏が改易となったため、豊後は小国に分割統治されることとなり、文禄4(1595)年、木付城には前田玄以が入城したが、これは代官の様なもので、2年後の慶長2(1597)年に杉原長房が城主として入城した
慶長3(1598)年、長房は但馬豊岡に転封となるが、この間に山麓の御殿の築城に取り掛かっている。
慶長5(1600)年、関ケ原の合戦で東軍に属して功のあった細川忠興が豊後<a href="../buzen/nakatsu.html" target="_blank">中津城主となると、木付城には家老の松井興長が入城した。
寛永9(1632)年、肥後熊本城主加藤忠広が改易となると、細川忠興の子忠利がその後に熊本城に入城した。
その際、支城の忠興は八代城は忠興の隠居城となったが、忠興の死後、松井興長が八代城主となった。
木付城には、明石城から小倉城小笠原忠真の弟で、旗本であった小笠原忠知が4万石に加増されて大名となり入封した。
正保2(1645)年、忠知は三河吉田城に転封となり、代って松平(能見)英親が豊後国高田より32000石で入封し、以後能見松平氏のもと、明治維新を迎えている。
なお、この地が木付から杵築へ表記変更されたのは、正徳2(1711)年に、3代将軍家光より与えられた朱印状に、誤って「杵築」と記されたことによるとされている。
 現  況 城址は杵築武家屋敷群と平地を挟んだ台地上を主郭としていたが、遺構を探すのはかなり困難である。
城址天守跡に、昭和45(1970)年に模擬天守が建築され、資料館として公開されている。
城山北側の杵築中学校・図書館・民俗資料館が建てられている場所は御殿跡で、往時の庭園跡と北・東の石垣が残されている。
対岸台地上には、非常に良好な状況で武家屋敷群が残されており、城下町にも商家など、旧情を留めている。
八坂川沿いには船手長屋が民家となって残されている。
城下・武家屋敷・船手長屋 城下には、酢屋の坂脇に、坂の名前となった酢屋が味噌屋となって残されている。
坂上には、家老大原家の屋敷・磯矢邸、杵築小学校となっている藩校学習館跡など、良好に残されている。

元酢屋

酢屋の坂

酢屋の坂

大原邸長屋門

学習館門

学習館跡

学習館跡

武家屋敷

磯矢邸門

磯矢邸

勘定場の坂

勘定場の坂

船手長屋

船手長屋

城山遠望
御殿場 杉原長房の治世に建設がはじまり、後に藩主の居所となる御殿が置かれた。
現在は杵築中学校の校内となっているが、石垣や御殿庭園などの遺構が残されている。

海側登り口

西側石垣

西側石垣

北側石垣

北東角石垣

東側石垣

東側石垣

東側石垣

稲荷神社

杵築中学校
(御殿跡)

御殿跡

御殿庭園

御殿庭園

御殿庭園

杵築神社

天満社御旅所

杵築中学校舎と
水濠

北側水濠

北側水濠

西側水濠

西南側水濠

内郭
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