帝國博物学協会
豊後國
奈多城
 所在地 大分県杵築市大字奈多
 交通機関 JR日豊本線 別府駅下車 大分交通 北奈多下車 徒歩15分
 別  名 -
 略  歴 奈多氏は、宇佐大宮司公基からのわかれたと言われており、奈多八幡の大宮司家であった。
奈多城がいつ頃築かれたかは不明だが、近くの報恩寺が秀基の時に建てられている事から考えると、その頃にはこの城を居城としていたと考えられる。
奈多氏が歴史上に登場するのは鑑基の時である。鑑基は奈多八幡大宮司を継承し、娘を大友氏21代義鎮(宗麟)の正室にに送り込むと共に、社奉行に任じられて、社家に対して絶大な勢力を誇った。
永禄(1558〜70)の頃には、宇佐八幡宮の社領を奪取するなど、宇佐宮社家との紛争を繰り返したといわれる。
子の鎮基は、妻に宗麟の娘を娶り、父同様社奉行に任じられ、大友一族として宗麟に重用されている。
鎮基は大宮司職より武将としての側面が強く、多くの戦いに参陣し、また宇佐八幡宮との争いでは多くの事件を起こしたため、宇佐宮からは無道の張行 、天下希代の悪逆と訴えられている。
天正6(1578)年、主家大友氏が耳川の戦いで島津義久に大敗すると、大友家中に動揺が走り、相次いで離反者がで出た。 鎮基は田原親貫討伐戦、黒木実久討伐戦などの離反者の註滅や秋月種実らとの戦いに出陣して武功を挙げた。
天正15(1587)年、鎮基が死ぬと、跡を養子の万福丸(公家久我晴通子)が継いだが、主家大友氏が改易されると京都に帰っており、この頃奈多城は廃城となったと思われる。
 現  況 城址は、報恩寺の裏手の台地上に残されている。
城址は現在では畑地や果樹園となっているが、土塁・切岸などが残されている。
郭内は、基本的には方形館の構造であるが、高さの違いに伴って数段の小曲輪に分かれていたと考えられる。

大手口

奈多城下段

中段土塁

奈多城中段

北東側土塁

中段と上段切岸
左は櫓台か?

中段と上段切岸

中段の切岸

中段

中段と上段切岸

搦手口

上段切岸

上段北東側

上段虎口

上段

上段土塁

空掘か?

堀切
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