帝國博物学協会

豊後國
岡城
 所在地 大分県竹田市大字竹田字岡
 交通機関 JR豊肥本線 豊後竹田駅下車 徒歩20分
 別  名 臥牛城・豊後竹田城
 略  歴 文治元(1185)年、緒方惟栄が源頼朝に追われた源義経を迎えるために築城したといわれている。
しかし、これによって頼朝の怒りを買った惟栄は、上野沼田荘に流され、岡城を追われた。
建武元(1334)年、南北朝期に南朝に属した大友氏の一族、志賀貞朝が岡城に入城し、城を改修した。以後岡城は、志賀氏の居城となった。
志賀氏はその後も、大友氏館に本拠を置く豊後守護大友氏の重臣であった。
天正14(1586)年、日向侵攻を企てた大友宗麟が、耳川の戦いで惨敗した。一方この戦いに勝利した薩摩の島津義久は、九州制覇を目指して豊後に侵攻を開始した。
義久は、37000の大軍で岡城に迫った。時の岡城主は、若干18歳の志賀親次であった。親次は、わずか1000名程の城兵で、再三にわたる島津軍の攻撃を撃退した。
これによって親次は、中央から進出してきた秀吉の目に留まり、感状を受けている。
文禄2(1593)年、文禄の役に出兵した主君大友義統が、敵にて卑怯な振る舞いがあったとして改易となり、家臣であった志賀親次も領地を失い、岡城を去っていった。
。 その後、豊後国は分割され、複数の大名に分け与えられ、翌文禄3(1594)年、播磨三木城より、中川秀成が7万石で入城した。
秀成の父は、豪傑と言われ、賤ヶ岳の合戦で大岩山砦で玉砕した中川清兵衛清秀で、兄の後を受けて中川本家を継いでいた。
秀成は、岡城を3年の歳月をかけて整備し、本丸には天守の代わりとなる三階櫓を揚げ、岡城を石垣造りの近世城郭として整備した。
その後、岡城は中川氏が代々藩主を務め、明治維新を迎えている。

瀧廉太郎と岡城

明治4(1871)年から翌年にかけて、岡城は廃城となり、城内の建造物は全て破却された。
瀧廉太郎は、幼少期を竹田で過ごし、廃城後荒廃した岡城で、「荒城の月」のイメージを得たといわれている。(異説としては、瀧廉太郎が幼少期を過ごした日出城のイメージであるともいわれる。)
城内二之丸には、これを記念して瀧廉太郎の銅像が立てられている。
 現  況 城址は岡城址公園として一般に開放されている。
現在の城址には、建物の遺構は残されていないが、曲輪や石垣などが一部改変されているものの、殆どの遺構が残されている。
平成11年には、大手門が一時的に模擬復元されたが、その後解体されて、一部が城外に移建されている。
現在でも城内各地で発掘作業が続けられている。
總役所 城代家老を中心に、藩政の総元締めをしたところである。
月番の家老を中心に、総頭取・物頭・奉行・吟味役・代官などがここで政務を執っていた。

岡城址碑

總役所跡

總役所址碑

總役所北側の
切岸

總役所北東の
石塁

總役所から
西之丸を望む

大手道
鉄砲方詰所 大手門下にある小さな扇形の建物で、普段は鉄砲頭1名と御徒馬廻4〜5名が詰めていた。

鉄砲方詰所跡

鉄砲方詰所跡
大手門 大手門は、大手道を登った場所に構えられており、慶長年間に加藤清正の進言により、下原門からこの方面に移されている。
大手門は、当初現在の古大手門があてられていたが、朝日に向かって眩しいという理由から、現在の大手門に変更されている。
大手門前の坂には、珍しい蒲鉾型の石塀が残されている。、

岡城址碑

岡城址案内板

大手道と蒲鉾型
石塀

大手口石垣

大手口石垣

大手口石垣

大手坂と大手門
石垣

大手坂と横矢
石垣

大手坂と横矢
石垣

大手門跡

大手門礎石

大手門から
西之丸を望む

大手門跡

西之丸下曲輪
から見た大手門
古大手門と
古大手前曲輪
中川氏が築城した初期の大手門である。
門の前には空掘と土橋が設けられており、空掘の手前には馬出状の曲輪が設けられていた。
往時はこの曲輪から大手道への通路が存在したと考えられるが、現在ではその通路の路筋すら判別できない。

古大手門跡

古大手門跡側面

古大手門跡と
土橋・空掘

古大手門前曲輪

古大手門前曲輪

古大手門跡と
古大手門前曲輪

旧大手道

土橋と空掘

古大手門石塁

空掘

古大手門脇櫓
櫓台石垣

古大手門前曲輪
遠望

西之丸

武具方・賄方

家老屋敷
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