帝國博物学協会

豊後國
佐伯城
 所在地 大分県佐伯市西谷町
 交通機関 JR日豊本線 佐伯駅下車 大分バス 大手前下車 徒歩30分(本丸)
 別  名 鶴ヶ谷城・鶴屋城・鶴ヶ城
 略  歴 慶長6(1601)年、日隈城主毛利高政は、関ヶ原合戦で西軍に属したため、栂牟礼城に転封となった。
戦国期に築かれた栂牟礼城は急峻な山城で、城下町の整備もできないため、高政は新たに八幡山に新城を築城することとした。 毛利高政は、中国の雄毛利氏とは血縁的な関係は無く、元来森を姓としていた。天正10(1582)年、羽柴秀吉の中国攻略に従軍し、毛利氏との講和の際に、毛利方に人質として残された事から、これ以後毛利を姓とした。
城は慶長11(1606)年に一応の完成を見たが、程なく失火によって山上の本丸・二之丸は焼失してしまった。
寛永14(1637)年、平和な世の中になって、山上の城郭が不便であったため、山麓に新たに三之丸を築き、政庁をここに移した。
毛利氏は12代二百数十年に渡って、佐伯城を居城とした。
享保14(1729)年、藩は老朽化した山上の城を修復している。
8代藩主、毛利高標は藩教育に力を注ぎ、安永6(1777)年に藩校「四教堂」を設立、天明元(1781)年には、城内三之丸に「佐伯文庫」を設立し、中国の四書五経を中心とする約8万冊もの書籍が収集された。
明治維新後の明治2(1869)年、12代藩主高謙が版籍を奉還し、佐伯藩の藩政が終わり、佐伯城は廃城となった。
 現  況 城址は佐伯市の北部にあり、城山公園となっている。
山麓の三之丸は、市の文化会館となっており、表門が現存しているほか、石垣・庭園遺構が残されている。
現在、三之丸脇の舗装路から三筋(翠明の道・登城の道・独歩碑の道)に分かれている登城路は、往時は庭園背後の階段から登ったようで、平和な時代に、山上の曲輪があまり重要視されていない事がよくわかる。
山上の城は、建物こそ残されていないが、石垣遺構は、本丸の一部に階段が設けられて破壊された以外には、殆ど旧状を留めている。
なお、市内船頭町に、佐伯城三之丸御殿敷台が移築されて、現在公民館として使用されて現存している。
三之丸御殿 昭和50年代に文化会館建設の際、解体された三之丸御殿の玄関敷台を、移築したものである。 文化財を解体して造ったコンクリート製文化会館は、これこそ本末転倒ではなかろうか…。

三之丸御殿敷台

三之丸御殿敷台

三之丸御殿(横)

三之丸御殿(横)
城下 城下入口には虎口状のクランクを置き、その外側に毛利氏菩提寺の養賢寺を置くことによって、攻撃者を抑えている。
養賢寺前には、直線状の馬場があったが、その馬止めの土塁が残されている。

武家屋敷入口
の虎口

馬場先御番所跡

馬場の土手

馬場の土手

馬場の土手碑

養賢寺

佐伯城址遠望

安井の井戸
城内 三之丸から大手門の間には、佐伯藩の藩庁や藩校四教堂が置かれた。

大手門跡

大手道

四教堂跡案内板

四教堂門
(佐伯小校門)

搦手門跡
三之丸 佐伯藩主毛利氏の居館が置かれていた。天明元(1781)年には、ここに佐伯文庫が設置された。

三之丸北側
石垣

三之丸北東角
石垣

模擬櫓

三之丸櫓門

三之丸櫓門

三之丸東南側
石垣

三之丸跡石碑

三之丸櫓門

三之丸

模擬櫓

佐伯文庫石碑

三之丸庭園

三之丸庭園石橋

山上の郭へ
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