帝國博物学協会
豊後國
鶴崎城
 所在地 大分県大分市南鶴崎1
 交通機関 JR日豊本線 鶴崎駅下車 徒歩10分
 別  名 熊本藩御茶屋御殿
 略  歴 鶴崎城は、大友氏の重臣、吉岡氏の持ち城であった。
吉岡氏は大友氏初代大友能直の孫、野津頼宗を始祖とする一族で、千歳城を居城としていた。
鶴崎城が歴史上に登場するのは、天正14(1586)年、島津軍の豊後侵攻を受けた時である。
時の吉岡氏の当主は、大友氏三老と言われた吉岡鑑興の子、甚橘であった。
甚橘は、宗麟に従って丹生島城に籠城したため、鶴崎城の守りは、甚橘の母、妙林尼に委ねられていた。
鶴崎城に籠城した妙林尼は、婦人でありながら籠城する諸将を率いて善戦し、侵攻する島津軍を乙津川に誘い出して撃滅するなどの戦果を挙げている。
妙林尼は、その後も善く戦ったが、島津の大軍に最後は鶴崎城を開城し、撤退した。
ところが、豊臣秀吉が自ら乗り込んで来ると、撤退する島津軍に攻撃を仕掛け、伊集院美作守・白浜周防守ら、多くの島津軍の武将を討取った。
この戦いを総称して、「鶴崎城の戦い」と呼び、妙林尼の武勲を後世に伝えている。
文禄2(1593)年、主君大友義統が改易されると、吉岡氏も浪人となり、鶴崎城も廃城となった。
慶長6(1601)年、鶴崎の地は、肥後熊本城加藤清正の支配下に置かれた。
清正は、鶴崎城を改修して御茶屋御殿とした。鶴崎は、熊本藩の参勤交代の際に出帆地とされており、熊本から陸路を辿った行列は、この御茶屋御殿に宿泊後、ここから海路江戸に向かった。
これは、熊本藩が加藤氏から細川氏に代わった後も引き継がれ、後にはこの地の御郡令所・御郡代詰所・御銀所・武器庫など、多くの役所が設けらた。
万延元(1860)年、この地には、熊本藩の郷校・成美館が設立された。
御茶屋御殿が廃止されたのは、明治4(1871)年、廃藩置県の年のことであった。
 現  況 城址は、鶴崎小学校・大分鶴崎高校の校地となっており、遺構は残されていない。
鶴崎小学校の校庭側の門内に、城址を示す石碑と案内板が立てられている。
また、大分鶴崎高校と鶴崎小学校の間の道路、ほぼ中央の木の根本に、「成美館跡」の石碑が立てられている。

鶴崎城址碑

鶴崎城址案内板

鶴崎小学校

鶴崎小学校前

大分鶴崎高校
鶴崎小学校間の道

成美館跡石碑
熊本藩主参勤交代時御船着場跡 熊本藩では、加藤清正の頃より、参勤交代には陸路を御茶屋御殿まで辿った後、ここから海路江戸に向かって出帆した。
現在では内陸になってしまっているが、往時はここまで海岸線があったと考えられる。
下掲の石碑は、「新堀公園」という公園に立てられている。

新堀公園

熊本藩主参勤
交代時御船着場
跡石碑
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