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| 所在地 | 大分県大分市上野丘西9丁目 |
| 交通機関 | JR日豊本線 大分駅下車 大分バス 上野下車 徒歩5分 |
| 別 名 | 西山城・上原館 |
| 略 歴 |
大友氏は相模大友荘を本貫とする一族で、源頼朝庶子を始祖とすると伝えられてきたが、古庄能成の子であったとする説が有力である。 大友氏は、頼朝より豊後守護職を与えられたが、豊後に下向したのは三代頼康の時であった。 大友館がの創築時期については不明だが、鎌倉期には既に存在したと考えられており、豊後守護所であった。 第20代当主・大友義鑑鎮は、嫡男義鎮を廃嫡し、側室の子で三男の塩市丸を家督としようとした。 これに対して、家臣斎藤長実・小佐井大和守・津久見美作守・田口蔵人佐が異を唱えたため、天文19(1550)年2月10日、義鑑に与した入田親誠が、大友館に登城した斎藤・小佐井を殺害した。 これを知って怒った津久見・田口は、大友館の二階に押し入り、家督争いの元凶として、義鑑三男の塩市丸・側室・娘・侍女らを殺害した。 更に義鑑を除くべく義鑑の部屋を襲い、義鑑に重傷を負わせたが、却って義鑑の近習に討たれた。 義鑑は、2日後にこの傷がもとで死亡した。これを二階崩れの変という。 嫡男義鎮は、この日は別府にいたため、危急を知って大友館に乗り込むと、戸次鑑連(立花道雪)らに擁立されて家督を継承した。 一方、この勢力争いに破れた入田親誠は、栂牟礼城に立て籠ったものの、戸次鑑連を主将とする義鎮の討伐軍が差し遣わされて、豊後を逃れて肥後の阿蘇大宮司、阿蘇惟豊を頼ったが、却って非難されて殺害されている。 大友館が廃されたのは、福原直高が府内城を築いた慶長2(1597)年といわれている。 |
| 現 況 |
館址は、国府が置かれていた上野台地上にあり、鎌倉期から続く方形館である。 現在館中心部は住宅地となっているが、南側土塁と西側虎口付近の土塁が良く残されている。 二階崩れの変が発生した館であることから、館内に二階建ての建物があったことがわかる。 虎口付近は民有地となっており、遺構を間近で見ることができないが、南側土塁上が神社境内となっており、石碑が立てられている。 |
![]() 天満社鳥居 |
![]() 大友館南側土塁 |
![]() 大友館南側土塁 |
![]() 西山城大友屋形址 石碑 |
![]() 天満社 |
![]() 天満社境内と 石碑 |
![]() 大友館南側土塁 |
![]() 大友館東側切岸 |
![]() 大友館内南より |
![]() 大友館内東より |
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![]() 大友館西側土塁 |
![]() 大友館西側土塁 |
![]() 大友館虎口 入口 |
![]() 大友館内西より |
![]() 大友館南西端土塁 |
![]() 大友館南西端土塁 |
![]() 大友館南側土塁 |
![]() 大友館遠 東側より |
![]() 大友館遠 西北側より |
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