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| 所在地 | 山形県山形市霞城町 |
| 交通機関 | JR山形新幹線 山形駅下車 徒歩15分 | 別 名 | 霞城 |
| 略 歴 |
南北朝期、出羽按察使として入国した斯波兼頼が館を構えたのがその創築である。 斯波氏はここを拠点に南朝勢力を駆逐し、その子孫が最上氏を名乗った。 最上氏は山形城を拠点に勢力を誇ったが、城が現在見られる原型に拡張整備されたのは、11代最上義光の頃、文禄〜慶長期である。 慶長5(1600)年、東の関ヶ原と言われる上杉軍との合戦では、その本陣としての役割を果たしている。 その功で最上氏は57万石の大大名になったが、元和8(1622)年、一族の内紛によって3代義俊の時に改易となった。 2008/4/26追記 同年、陸奥磐城平城より鳥居忠政が山形城に22万石に加増されて入封した。時代に現在の縄張りに改造されている。 鳥居氏2代忠恒は、生来の病弱によって寛永13(1636)年に33歳で死去した。嗣子が無かったため鳥居氏は改易となり、異母弟忠春がわずか3万石で信濃高遠城に入り鳥居氏の名跡を残した。 同年、将軍徳川家光の異母弟である保科正之が20万石を与えられて山形城に入城した。 保科氏の治世は7年で、寛永20(1643)年、会津城23万石に転封し、代って越前大野城から松平(結城)直基が15万石で入封した。 直基は、4年後の慶安元(1648)年、播磨姫路城になり、入替わりで松平(奥平)忠弘が9万石で入城した。 寛文8(1668)年、下野宇都宮城に転封し、またもや入替えで奥平昌能が入城した。 貞享2(1685)年、下総古河城から堀田正仲が10万石で入封するが、翌3年には陸奥福島城に転封となった。代って豊後日田陣屋から10万石で松平(越前)直矩が山形城に入城した。 元禄5(1692)年、直矩は陸奥白河藩(小峰城)に15万石で加増転封になり、入替えで松平(奥平)忠弘が10万石で再入城した。 松平氏は、2代忠雅の元禄13(1700)年、備後福山城に転封となり、陸奥福島城から堀田正仲の弟、正虎が10万石で入城した。 堀田氏は3代46年の治世であったが、延享3(1746)年、正亮の時の下総佐倉城に転封となった。 入替わりで佐倉城から松平(大給)乗祐が6万石で入城した。 明和元(1764)年、大坂城代となった乗祐は、三河西尾城に国替えとなり、山形は天領となった。 明和4(1768)年、武蔵川越城から秋元凉朝が6万石で入城し、以後4代に渡って山形を治めた。 弘化2(1845)年、4代志朝が上野館林城に転封となり、遠江浜松城から水野忠精が5万石で入城した。 山形城は、当初57万石の大大名最上氏が築いた城であったため、規模としては有数の規模を誇っていたが、この頃になると、城主の石高だけ見ても1/10以下という凄まじい状況となっていたため、修理費用もままならず、二之丸御殿を中心とした部分だけが利用され、幕末には本丸は更地となっており、三之丸の西半分は田畑となっていたと言われている。 水野氏は幕末には奥羽列藩同盟に参加したが、慶応4(1868)年に明治新政府軍に降伏した。 明治3(1870)年、水野氏2代忠弘は、近江朝日山陣屋に転封となり、山形藩は翌年の廃藩置県に先立って廃藩となった。 |
| 現 況 |
明治維新後、陸軍により本丸塁濠は埋め立てられてしまい残されていない。しかし、現在復元工事が行われており、甦るのが楽しみである。 二之丸諸門跡・土塁・水濠は、東側の水濠がJR(旧国鉄)により若干埋め立てられているのを除き完璧に残されている。 また、東大手門は、近年復元されており、白壁が非常に美しいのが印象的である。 三之丸外郭部については、ほとんどは埋め立てられ残されていないが、十日町口門南・小橋口門西に土塁が、下条口門東・稲荷口門西に堀跡がにかろうじて残されている。(詳細は地図参照) |
| 三之丸 |
![]() 三之丸十日町口 門南土塁 |
![]() 三之丸十日町口 門南土塁 |
![]() 三之丸小橋口門 西土塁 |
![]() 三之丸小橋口門 西土塁 |
![]() 三之丸小橋口門 西土塁 |
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![]() 二之丸濠から 発見された弁才天 |
![]() 三之丸下条口門 東濠跡 |
![]() 三之丸下条口門 東濠跡 |
![]() 三之丸稲荷口門 西濠跡 |
![]() 三之丸稲荷口門 西土塁 |
| 二之丸 |
![]() 南大手門石垣 |
![]() 二之丸南東側 土塁と水濠 |
![]() 二之丸東南側 土塁と水濠 |
| 本丸 |
![]() 本丸一文字門跡 |
![]() 本丸一文字門跡 |
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