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| 所在地 | 新潟県長岡市城内 |
| 交通機関 | JR上越新幹線 長岡駅下車 徒歩1分 | 別 名 | - |
| 略 歴 |
慶長11年(1606)、堀秀正の弟親良が隠居し秀治の二男鶴千代を養子に迎え、その後見人として堀直竒が蔵王堂城に入った。 蔵王堂城は信濃川沿岸にあり、河川の氾濫の発生など危険であったため、新たに南方の長岡の地に城地を定め築城を開始した。しかし、慶長15年、堀宗家が改易となり、直竒は信州飯山へ転封となった。 元和2年(1617)、再度直竒が8万石で入封すると、翌3年から再度長岡築城を開始した。 堀氏は翌年越後村上に転封となり、代わって牧野忠成が越後長峰より6万石で入封すると、引き続き築城を続け、工事を完成させた。 以後牧野氏の下で明治維新を迎える筈であったが、維新の混乱期に中立を求めた長岡藩は官軍により攻め込まれることと成った。有名な長岡城攻防戦である。 長岡藩の将河井継之助は、一旦長岡城の放棄を決意し、藩主を栃尾に移した。官軍は長岡城を奪取すると、周囲に兵を分散配置していた。 継之助は官軍配置からあらためて長岡城を再奪取することを決意し、急襲し、見事に再奪取に成功した。この後、官軍も再奪還に動き、この戦闘で継之助は重症を負ってしまう。そのため戦線が崩壊し、長岡城は遂に官軍の手に落ちることとなってしまった。 |
| 現 況 | 長岡城は、維新政府に疎まれたためか、城内本丸にJR長岡駅が作られ、現在では跡形もなくなってしまった。城跡を示すものは、「城内」という地名と、長岡駅付近の「長岡城本丸址碑」、厚生会館付近の「長岡城址」碑のみである。 |
![]() 長岡城二之丸跡 |
![]() 長岡城二之丸跡 案内板 |
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