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| 所在地 | 福井県福井市城戸ノ内町 |
| 交通機関 | JR越美北線一乗谷駅下車 徒歩30分(一乗谷城まではさらに30分) | 別 名 | - |
| 略 歴 |
現在一乗谷朝倉氏館と呼ばれる史跡のある地に、越前の国人朝倉氏が居を構えたのは、応仁の乱で守護の斯波氏賀が衰退した後の、初代朝倉孝景の頃と考えられている。 二代氏景は、守護代甲斐氏・織田氏などと勢力を争い、三代貞景の頃、文明〜長享年間(1469〜1489)には現在見られる館と城下町が完成した。 四代孝景の頃になると、応仁の乱後荒れ果てた洛中から難を逃れた公家が、頻繁に一乗谷を訪れるようになり、朝倉氏も貴族化していった。 五代義景の時代になると、益々勢力を誇るようになり、永禄8年(1565)、将軍義輝が家臣の三好氏などに叛かれ死亡すると、弟の義秋が朝倉氏に身を寄せ、上城戸外に御所が造営された。 義昭は、朝倉氏の勢力による京都復帰を熱望したが、朝倉氏にはその意向がないとわかると、尾張・美濃の織田信長に身を寄せ、信長の手によって15代将軍となり京都復帰を達成した。 一方、朝倉氏は信長の上洛命令を蹴ったため信長と反目するようになり、信長の越前攻めに晒されることとなった。 一度は近江の浅井氏の味方によりかわすことができたが、浅井氏滅亡後の天正元年(1573)、遂に一族景鏡の裏切によって、大野賢松寺において義景が自害して朝倉氏の統治に終止符を打つこととなる。 その後、朝倉氏旧臣桂田長俊が守護代として一乗谷館に入るが、翌天正2年、府中城主富田長繁と争い桂田氏は滅亡した。 勝った長繁も一向一揆との戦いに敗死、朝倉景鏡も敗死するに及んで、信長は再度の越前進攻を行い、一向一揆勢を壊滅に追い込むと、家臣団の長老、柴田勝家を越前に送り込んだ。 勝家は山奥の一乗谷を嫌い、福井平野に北ノ庄城を築城して移り、一乗谷館は廃城となった。 |
| 現 況 |
館址は城下町を含め、国指定史跡「一乗谷朝倉氏遺跡」となり、発掘調査・町屋・武家屋敷などの復元が行われている。 館址には、豊臣秀吉が寄進したと伝えられる唐門が建ち、発掘された建物の礎石なども残っている。 山頂の城址部分には、曲輪跡の削平地をはじめ、空掘・土塁などもよく残っている。 |
![]() 山頂部 一乗谷城址 |
![]() 山麓部 一乗谷館址 |
![]() 館周囲 城下城戸内 |
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