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| 所在地 | 熊本県人吉市麓町ほか |
| 交通機関 | JR人吉駅下車 徒歩20分 |
| 別 名 | 繊月城・三日月城 |
| 略 歴 |
人吉城を最初に築いたのは、平氏の家臣、矢瀬氏であったが、いつの頃かは不明である。 治承4(1180)年に源頼朝が平氏追討の兵を挙げた時、平氏方についた相良荘司頼景は、平氏の滅亡によって領地没収された。 この相良氏が、鎌倉幕府に仕え後、建久4(1193)年、新領地として多良木荘を賜り、相良頼景下向した。 元久2(1205)年、人吉荘の地頭に任ぜられた相良長頼は、人吉城主矢瀬主馬佑をを謀殺し、人吉城を支配下に置いた。 相良氏は、その後佐敷城・八代城に拠点を移したが、天正9(1581)年、島津義久の北上により、18代義陽はその支配下に入った。 天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州征伐では、20代長毎は球磨郡22000石を安堵された。 慶長5(1600)年、関ケ原の合戦で、当所長毎は西軍に加担したが、東軍に寝返り本領を安堵された。 人吉城は天正17(1589)年より寛永16(1639)年まで、現在見られるような石垣造りの城として改修され、22代頼寛の時に完成した。 人吉城は、相良氏の下で明治維新を迎えた。 相良氏は、鎌倉時代より35代に渡り人吉を治めた稀有な大名であった。 明治4(1871)年、廃藩置県により廃城となった人吉城であったが、明治10(187)年に起こった西南戦争で、西郷隆盛率いる薩軍の拠点となり全焼した。 |
| 現 況 |
人吉城は、中世と近世の混在する城跡である。 近世人吉城は、二之丸・三之丸・御館を中心とする城郭で、石垣造りの城であった。 一方、中世の人吉城は、現在残る人吉城の背後に残る、土造りの山城であった。 本丸・二之丸など、山上の郭は、石垣がよく残されており、御館には相良神社が建立されている。 平成元(1989)年には外郭隅櫓が復元され、平成5(1993)年には大手門脇多聞櫓と続塀が復元された。 また、外郭には人吉城歴史館が建てられており、人吉城の歴史を伝えている。 |
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![]() 角櫓遠望 |
![]() 角櫓 |
![]() 外郭土塀と 大手門脇多聞櫓 |
![]() 大手門脇多聞櫓 |
![]() 大手門跡 |
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![]() 大手門階段 |
![]() 大手門脇 水手 |
![]() 大手南石垣 |
![]() 大手口門跡 |
![]() 大手口門跡と 大手門脇多聞櫓 |
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![]() 大手門脇多聞櫓 |
![]() 軍役蔵跡 |
![]() 角櫓 |
![]() 外郭北面土塀跡 |
![]() 外郭北面水手 |
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![]() 相良清兵衛屋敷 地下室遺構 |
![]() 後口馬場井戸 |
![]() 岩下門跡 |
![]() 岩下門跡 |
![]() 武家屋敷石垣 |
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![]() 水之手門付近 石垣と球磨川 |
![]() 水之手門跡 |
![]() 水之手門跡 |
![]() 水之手門虎口 |
![]() 人吉城址碑 |
![]() 水之手門脇 石垣上 |
![]() 米蔵跡 |
![]() 米蔵跡 |
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![]() 御館南水濠 と石垣 |
![]() 御館御門跡 |
![]() 御館南面東側 石垣と水濠 |
![]() 御館南面西側 石垣と水濠 |
![]() 御館南西角 石垣 |
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![]() 清兵衛門跡 |
![]() 御館西側石垣 |
![]() 御館西北角石垣 |
![]() 御館北側 跳出石垣 |
![]() 相良神社境内 (御館跡) |
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![]() 清兵衛門跡 |
![]() 御館西側 |
![]() 御館跡 |
![]() 御館跡 |
![]() 堀合門跡 |
![]() 堀合門跡 |
![]() 山上郭群 |
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