|
|
|
|
|
|
|
|||
|
|
| 所在地 | 熊本県熊本市本丸ほか |
| 交通機関 | JR熊本駅下車 市電市役所前下車 徒歩10分 |
| 別 名 | 隈本城・銀杏城 |
| 略 歴 |
2006/10/21全面改訂 慶長6(1601)年、関が原合戦で東軍に属した加藤清正は、西軍に属した小西行長の旧領と合わせて、肥後一国54万石の国主となった。 それまで、隈本城に居城した清正であったが、国主に相応しい城として、新たに茶臼山と呼ばれた岡の上に、新城を築城した。 これが、現在残る熊本城である。 熊本城は、茶臼山南西麓の隈本城と、北西にあった千葉城を、新城の内に取込むと言う、巨大な城であった。 熊本城が完成したのは慶長12(1607)年というのが通説になっている。 加藤氏は2代忠広の寛永9(1632)年5月に改易になり、忠広は出羽庄内に配流となった。 熊本城には、豊前小倉城より細川忠利が入城し、以後細川氏11代が熊本藩を治め明治維新を迎える。 熊本城がその真価を発揮したのが、明治10(1877)年、不平士族擁する西郷隆盛が起した西南戦争のときである。 城兵は公募の兵士であったため、薩摩武士を中心とし、明治維新に活躍したた西郷軍は、一気呵成に熊本城を落城させる勢いであった。 城の守将の谷干城は、城の象徴である天守に火をかけ将兵を鼓舞したといわれる。 西郷軍は熊本城を攻め立てたが、遂に抜くことができなかった。 西郷軍はこの戦いで消耗し、以後敗戦を重ねる事となる。 西南戦争では、城中の多くの建物が戦火で失われたが、清正が築城した熊本城が難攻不落の堅城であったことがあらためて証明された。 |
| 現 況 |
熊本城の城域は広く、南西の旧隈本城の城域から最北端の監物台まで、広範に石垣が残されている。 主郭部には、宇土櫓など多くの現存建物が残されている。また、中心となる曲輪が完存しているばかりではなく、外郭についてもその跡を追うことができる。 昭和35(1960)年には、天守群を復元、平成元(1989)年には数寄屋丸二階御広間が復元されている。 熊本市では、熊本城復元整備計画を策定し、平成14(2003)年には、西出丸(奉行丸)の南大手門を、翌15年には戌亥櫓・元太鼓櫓・未申櫓を、17年には飯田丸五階櫓をそれぞれ復元しており、現在本丸御殿大広間(平成19年完成予定)を復元中である。 今後も、百間櫓・西竹の丸五階櫓・数寄屋丸五階櫓・御裏五階櫓・櫨方三階櫓・北大手櫓門など、復元計画が目白押しで、復元が大変待ち遠しい。 |
|
2006/10/21追加 |
![]() 隈本城 |
![]() 千葉城 |
|
|
![]() 三之丸跡 |
![]() 坪井川沿い石垣 |
|
|
![]() 二之丸 |
![]() 二之丸御門 |
![]() 百間石垣 |
![]() 南側石垣 |
![]() 国立熊本病院 南側石垣 |
![]() 国立熊本病院 南側櫓台石垣 |
![]() 時習館跡 |
|
|
![]() 西大手櫓門 |
![]() 南大手櫓門跡 |
![]() 西出丸 |
![]() 西出丸水濠 |
![]() 西出丸戌亥櫓跡 と空掘 |
|
![]() 西大手櫓門 |
![]() 南大手櫓門 |
![]() 未申櫓東面 |
![]() 長坂と西出丸 東面 |
![]() 西出丸南面 土塀と戌亥櫓 |
|
![]() 西出丸戌亥櫓 と空掘 |
![]() 西出丸東面 |
![]() 南大手櫓門 |
![]() 西大手櫓門 |
![]() 未申櫓 |
![]() 奉行丸 |
![]() 西出丸と天守群 |
![]() 西大手桝形 |
![]() 戌亥櫓 |
![]() 西出丸西面 |
![]() 戌亥櫓 |
![]() 北大手櫓門跡 |
|
|
![]() 埋 門 |
![]() 監物櫓 |
|
|
![]() 備前掘と 竹之丸石垣 |
![]() 馬具櫓と長塀 |
![]() 馬具櫓と 櫨方門跡 |
![]() 竹之丸井戸 |
![]() 須戸口門跡 と平御櫓 |
![]() 長土塀 |
![]() 馬具櫓 |
![]() 備前堀と 飯田丸五階櫓 |
![]() 長土塀 |
![]() 主郭へ |
|
|