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| 所在地 | 茨城県水戸市三の丸 |
| 交通機関 | JR常磐線 水戸駅下車 徒歩10分 | 別 名 | 馬場城・水府城 |
| 略 歴 |
建久(1190〜1198)年間に、常陸の大掾平国香の8代子孫、馬場資幹によって館が築かれたとされている。 馬場氏はこの城に拠って、230年もの間、この地に勢力を誇っていたが、応永23(1416)年に発生した上杉禅秀の乱では、馬場満幹が関東管領上杉氏に与して敗北した。 馬場氏に代って勢力を得たのが、公方方に与した江戸通房で、応永33(1426)【応永29年との説もある】年、馬場満幹の留守を狙って馬場城を攻略した。 これによって、馬場氏は一気に勢力を失い、石岡に退いている。 この頃になると、関東は鎌倉公方・管領上杉家・京都将軍家の勢力が入り乱れて対立した。江戸氏の主君は常陸守護の佐竹氏であったが、佐竹氏も本家・分家に分かれて相争う事態であった。 天文21(1552)年、関東管領上杉憲政が北条氏康の攻勢で上野平井城を追われると、北条氏の勢力が北関東にまで及ぶようになった。 佐竹氏は、反北条の立場で北条方の小田城主小田氏治と争って、これを降伏させると共に、越後の上杉謙信と協力して、反北条戦線を維持しており、江戸氏もこの戦いに加わっている。 天正18(1590)年、豊臣秀吉が小田原城を大軍で包囲すると、時の佐竹氏当主、佐竹義宣は小田原の秀吉に拝謁し、常陸・下野で540000石を安堵された。 慶長7(1602)年、水戸城には徳川家康の5男武田信吉が入城したが、翌8年に死去、嗣子も無かった事から10男・長福丸(後の徳川頼宣)が城主となった。 慶長14(1609)年、頼宣は駿府城50万石に転封し、水戸城には家康の11男鶴千代(頼房)が下妻城より250000石で入封した。 幕府は名古屋城の尾張大納言徳川家、和歌山城の紀州大納言徳川家、そして水戸中納言徳川家の3家を御三家と称した。 頼房は、寛永2(1625)年から城の大改修と城下町の整備を行い、水戸藩の基礎を固め、以後幕末までの間水戸徳川家による支配が続いた。 水戸徳川家は、常府大名であったため、当主は水戸城に起居する事はなかった。幕府からは土造りの城ではなく、石垣の城に改修する事を薦められたが、不要として従来の城郭を維持していた。 水戸藩2代藩主光圀(義公)は、水戸黄門漫遊記で有名であるが、実際には江戸と水戸を出た事はなく、むしろ大日本史を編纂させた事蹟の方が価値がある。この結果、水戸藩では勤皇の精神を中心とした水戸学が盛んになった。 また9代藩主斉昭(烈公)は尊皇攘夷を唱えて藩校弘道館を造り、幕政にも参加しているが、晩年は大老井伊直弼との政争に破れて蟄居している。 15代将軍徳川慶喜は、斉昭の7男である。 |
| 現 況 |
城址は文教地区となっており、本丸は水戸一高、二之丸には水戸三高、水戸市立水戸第二中学校、茨城大附属小・幼稚園、三之丸には水戸市立三の丸小学校がある。 本丸には、橋詰門ではないかと言われている薬医門が唯一の遺構として残されている。ただし、この門は往時は茅葺であったようだが、現在では銅版葺きに変更されている。 本丸は、橋詰門跡の虎口や周囲の土塁・櫓台土塁などが良く残されている。 東二之丸(佐竹氏時代の本丸)は、南側の土塁・東側の土塁が残されている。 二之丸では、西側の土塁が良好に残されており、大手虎口の土塁も明確に残されている。 三之丸では、北側の空掘・土塁と西側の空掘・土塁が良好に残されていると共に、藩校弘道館正庁の建物が残されている。 太平洋戦争の空襲によって、残されていた御三階櫓を焼失しており、その時に弘道館八卦堂・孔子廟も焼失したが、八卦堂は昭和29年に、孔子廟は昭和45年に再建されている。 |
| 郭外 |
三之丸の土塁の外には重臣の屋敷が建てられていた。 弘道館の北側には附家老中山氏の邸宅があった。南側には三木仁兵衛之次の屋敷跡が、二代藩主光圀(義公)の誕生地として、義公祠堂として祀られている。 |
![]() 中山備前守 屋敷跡 |
![]() 中山備前守 屋敷跡 |
![]() 水戸黄門神社 (義公祠堂) |
![]() 水戸黄門神社 (義公祠堂) |
| 三之丸 |
重臣の屋敷が置かれていたが、幕末には藩校弘道館が置かれていた。 明治維新後は県庁が設置されたが、堀や土塁・藩校弘道館の政庁などが往時の姿を伝えている。 現在では、県庁のほかに鹿島神社・三の丸小学校が設置されている。 現在駐車場入口となっている場所は、本来の虎口が設けられていた場所ではなく、明治以後に造られた場所である。 正保城絵図を見ると、南側の虎口は現在の警察署の駐車場にあったと考えられ、土塁は虎口の土塁と考えられる。 |
![]() 南側虎口土塁 |
![]() 南側虎口土塁 |
![]() 南側虎口土塁 |
![]() 南側虎口土塁 |
![]() 土塁・空堀と土橋 (警察車両の場所) |
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![]() 現在の南入口 |
![]() 空掘と土塁 |
![]() 空掘と土塁 |
![]() 空掘と土塁 |
![]() 駐車場入口 |
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![]() 空掘と土塁 |
![]() 空掘と土塁 |
![]() 土塁断面 |
![]() 土塁内側 |
![]() 鹿島神社 |
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![]() 斉昭手植えの 梅 |
![]() 北西端土塁 |
![]() 北側土塁と 空掘 |
![]() 北側土塁と 空掘 |
![]() 鹿島神社入口 |
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![]() 北側土塁と 空掘 |
![]() 北側土塁と 空掘 |
![]() 北側土塁と 空掘 |
![]() 北東側土塁と 空掘 |
![]() 北土塁内側 |
![]() 空掘跡と 二之丸跡 |
![]() 鹿島神社入口 |
![]() 北土塁内側 |
![]() 北土塁内側 |
| 弘道館 |
初期の頃は重臣の屋敷が置かれていたが、天保12(1841)年8月、徳川斉昭によって藩校弘道館が置かれていた。 明治元(1868)年、会津戦争で敗れた水戸諸生党が弘道館に立て籠もり、新政府に抵抗したため、多くの建物が失われた。 明治維新後は県庁が設置されたが、堀や土塁・藩校弘道館の正庁などが往時の姿を伝えている。 大東亜戦争では、米国の水戸空襲によって、八卦堂・孔子廟が被災・焼失した。 現在では、八卦堂・孔子廟も復元されており、往時の弘道館の範囲には、鹿島神社・三の丸小学校が設置されている。 |
![]() 八卦堂 |
![]() 八卦堂内の石碑 |
![]() 井戸 |
![]() 孔子廟 |
![]() 弘道館土塀 |
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![]() 徳川慶喜向学 の地石碑 |
![]() 弘道館土塀 |
![]() 表門 |
![]() 脇門と番所 |
![]() 弘道館正庁 玄関敷台 |
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![]() 弘道館正庁 |
![]() 弘道館正庁 |
![]() 厠・風呂 |
![]() 至善堂 |
![]() 対試場 |
![]() 二之丸・本丸・東二之丸 |
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