帝國博物学協会
肥前國
原城
 所在地 長崎県南島原市南有馬町大江名
 交通機関 島原鉄道 島原駅下車 島鉄バス 原城前下車 徒歩10分
 別  名 日暮城・志自岐原城
 略  歴 原城は、明応5(1496)年、日野江城の支城として、有馬氏の9代有馬貴純により築城されたのが創築である。
有馬氏が全盛期を迎えたのは10代晴純の頃で、島原半島の大半を賛下に入れていた。
戦国末期、有馬義貞の頃になると、大友宗麟や龍造寺隆信の圧迫を受けて、領域を大きく減じていた。
元亀2(1571)年、晴信が家督を継ぐと、隆信に臣従せざるを得なくなったが、天正12(1584)年、島津義久と手を結んで、隆信を沖田畷の戦いで討死に追い込んだ。
晴信は熱心なキリシタンで、有馬氏の領内の神社仏閣は破壊され、数万ともいわれる領民がキリシタンに改宗した。これが後年の島原の乱に結びついたとされる。
天正15(1587)年の豊臣秀吉の九州征伐では、逸早く秀吉の下に馳せ参じて、所領を安堵された。
慶長5(1600)年の関ヶ原合戦では、在国のまま西軍に属したが、西軍敗戦の報に東軍へ寝返り、加藤清正らと小西行長の宇土城を攻略し、旧領を安堵された。
慶長9(1604)年、晴純は原城を石垣造りの近世城郭としてに改修した。
慶長14(1609)年、岡本大八事件によって晴信は甲斐初鹿野に幽閉された後、切腹となった。
有馬氏は、嫡男の直純の室が徳川家康の外曾孫で養女国姫であったことから改易を免れた。
直純は晴信と違い、幕命に従ってキリシタンを迫害しつづけたが、余りに多くの領民を死罪に追い込む事に疲弊し、転封を願い出て許され、慶長19(1614)年、日向 延岡城へ転封となった。
日之江領は一時天領となるが、元和2(1616)年、大和五条から松倉重政が入封すると、新たに島原城の築城を開始し、日之江城と共にに原城も廃城となり、石垣や構築物が島原城建築材として転用された。
島原の乱
島原藩領
島原藩主松倉重政は、島原城の築城や公儀普請の手伝いのため、領民に過酷な税を課した。また、キリシタン禁教実施するため、徹底したキリシタン弾圧を行った。
年貢を納められない農民や改宗を拒む領民には、蓑踊りと呼ばれる見せしめの刑罰を科すなどの圧政を行った。これは2代藩主勝家にも引き継がれた。
寛永14(1637)年、有馬村のキリシタンを中心として代官所に圧政を止めるべく談判に赴いたが受け入れられず、代官林兵左衛門を殺害に及んで、遂に乱が勃発した。
島原藩では鎮圧のために軍勢を差し向けたが、深江村の迎撃戦に敗れて敗走、一揆軍は島原城下を焼き払って城に迫ったが、藩兵が頑強に籠城したため、遂に攻城を諦めて撤退した。
唐津藩領
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦に東軍として参加した唐津城主寺沢広高は、肥後天草分40000石を加増された。
広高は天草のキリシタンを弾圧し、これは2代堅高にも引き継がれた。
天草には小西行長・佐々成政・加藤忠広の旧臣や、豪族家臣の多数が帰農しており、これら浪人を中心にして一揆が組織されていった。
天草のキリシタンは、総大将として益田四郎時貞(天草四郎)戴いて島原に遅れること数日後に本渡城など唐津藩の出先を攻撃、天草においても叛乱が勃発した。
富岡城代の三宅籐兵衛は、一揆鎮圧のため唐津藩兵1500を率いて本渡に向かったが、一揆軍の方が多勢であったことや、旧武士として戦術に優れていたなどの要因から敗れ、籐兵衛は討ち死にした。
これに勢いを得た一揆軍は本渡から富岡に押し寄せて、富岡城攻撃した。富岡城側では、原田伊予が城代に代わって守将となり、一揆軍の猛攻に耐えた。
一揆軍は北丸を陥落させ、本丸に猛攻を仕掛けて落城寸前まで追い詰めたが、これを落とす事ができなかった。
一方幕府では、九州の諸藩を中心に討伐軍を編成して一揆軍に迫ったため、一揆軍は富岡城の囲みを解いて島原半島に渡海し、島原の軍と合流することに至った。
原城籠城
海を渡った天草軍と島原軍は、廃棄された原城を修復して籠城する事に決した。
一揆軍は、すぐに原城の修復を開始し、堀を穿ち柵を構築し逆茂木を準備するなど、籠城に向けての準備を行った。
幕府は三河深溝城主で御書院番頭の板倉重昌を上使として急派して、九州の諸大名による一揆討伐軍を編成した。
討伐軍は原城を包囲して攻撃したが、各藩の兵は既に太平の世に慣れて連携に齟齬をきたし、戦意の高い一揆軍に撃破された。
寛永14(1537)年12月10日および20日、重昌は二度に渡って総攻撃を行ったが、遂に城を落とす事ができなかった。
策に困った幕府軍は、日向から抗夫を呼んで穴(甬道)を掘らせたが、一揆軍の抵抗にあって作戦は失敗に終わった。
こうした事態に、幕府では更に重職の老中松平伊豆守信綱を上使として派遣する事に決した。
面目を失った重昌は、寛永15(1538)年正月1日を期して総攻撃を実施したが脆くも失敗し、多くの兵を失うと共に重昌自身も討死してしまった。
新たに上使として着任した信綱は、無理な攻撃を止め、12万もの軍勢で原城を囲み、兵糧攻めとする策に出た。
信綱は、攻撃の手を海側よりも伸ばす事とし、長崎に逗留していたオランダ船デ・ライプ号とベッテン号を島原に回航させて砲撃を行わせた。
こうした厳重な包囲に晒されて、さしもの一揆軍も食糧が尽き、海草を食糧とするなど、飢餓状態となっていった。
信綱はこの状況を逃さずに2月28日を総攻撃の日と決めたが、佐賀藩が前日の27日に抜け駆けを行ったため、総攻撃は前倒しされる事となった。
12万の大軍は四周から原城を攻撃、一揆軍は既に長期戦により弾薬も尽きかけていたため、一気に戦線が崩壊して原城は落城し、主将天草四郎以下老若男女37000とも言われる一揆軍は壊滅した。
戦後処理
島原の乱の元凶となった島原城主松倉勝家は改易の上斬首となり唐津藩からは天草領が没収とされた。
藩主寺沢堅高は、後に精神的に異常をきたして切腹したため、寺沢氏もまた改易となった。
幕府は一国一城令によって廃城となっていた原城が、一揆軍によって予想以上の抵抗拠点として機能した事を重く見て、各国に諸国巡見使を派遣して城割りの状況調査し、防御能力の高い城に付いては、藩主に徹底的な破壊を命ずるなどの対策を講ずる事となった。
 現  況 城址は島原半島の南端に近い原城地区にある。
城域は極めて広大で、徳川幕府が12万もの大軍で攻めても攻めあぐねたのがよくわかる。
その一方で、乱後に徹底的に破壊され尽くしたため、主要部以外の遺構の残り具合は極めてよくない。
主要部には、松倉重政が、島原城築城の資材として石垣などを持ち去っているにもかかわらず、下部の石垣や虎口が残存しているのが意外であった。
発掘調査では、堀からおびただしい人骨が発見されており、幕府が乱後に城を破壊すると共に、多くの反乱者の死体を一緒に葬ったことが改めて確認されたとのことである。
主要部以外の曲輪は、畑などに転用されたところも散見される。
出丸 島原の乱では幕府軍の攻撃正面にあたり、有馬村勢によって守備された。

出丸に立つ
原城跡石碑

出丸脇の原城
本丸案内標柱

出丸切岸
三之丸 島原の乱では、布津村・堂崎村・有家村・有馬村合計3500が守備に就き、千束善左衛門らが指揮を執った。
大手門では、有馬監物、大江源右衛門等が指揮を執り、寛永15(1638)年2月28日の幕府軍の総攻撃では、細川軍がここを突破して城内に雪崩れ込んでいる。

北三之丸

北三之丸

三之丸標柱

北三之丸

板倉重昌碑

板倉重昌碑
解説版

本丸への道

北三之丸東面

北三之丸東面

北三之丸東面

甬道と浦田観音

北三之丸北面

大手道

大手門跡

大手門跡

南三之丸

南三之丸

南三之丸

南三之丸

南三之丸

南三之丸

南三之丸

南三之丸西端

南三之丸南側
切岸

南三之丸南面
遠望

南三之丸南西端

田尻門跡付近

本丸への道

三之丸

南三之丸

南三之丸

南三之丸

二之丸
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