帝國博物学協会
肥前國
蓮池城
 所在地 佐賀県佐賀市蓮池町蓮池
 交通機関 JR長崎本線 佐賀駅下車 佐賀市営バス 蓮池公園前下車 徒歩5分
 別  名 小曲城・小田城・蓮池陣屋
 略  歴 応永34(1427)年、小田直家の子直光が常陸筑波郡小田から肥前神埼郡蓮池に下向して城を築いたのが、肥前小田氏と小曲城の創始である。
小曲城は、佐賀江川が曲流する場所、即ち佐賀江川を天然の要害として築かれた。
小田氏はこの地に土着すると、肥前有数の国人として勢威を振った。
この後室町期になると、小田氏は少弐氏に従って九州探題であった渋川氏や大内氏に対抗して戦った。
天文2(1533)年、大内義隆が陶隆房を主将として肥前に侵攻、少弐氏は勢福寺城の籠城して抗戦した。この戦いは龍造寺家兼が陶の本陣を奇襲して破り、小田氏もこの戦いに参陣している。
同年、大内義隆自ら出陣し、少弐資元を攻撃、戦況は少弐方に不利となったため、重臣の千葉興常、龍造寺家兼は資元に和議を説き、一方小曲城主の小田資光は徹底抗戦を主張した。
資元は、家兼の意見に従って勢福寺城を明け渡して一旦は和議を結んだが、天文5(1536)年、再び挙兵して梶峰城に籠城したが、衆寡敵せず自刃に追い込まれた。
資光は、資元の子冬尚を擁立して、大内氏に通じたとして水ヶ江城に龍造寺家兼を攻めたが、家兼が少弐氏の再興に協力する事を誓ったために兵を引き、再び少弐氏を主家とする体制が整った。
少弐氏はその後龍造寺氏の勢力を排除して水ヶ江城を小田政光に与えた。
天文22(1553)年、蒲池鑑盛、小河武純ら筑後の勢力に擁せられた龍造寺隆信は、小弐氏に従って隆信を追った諸勢力を攻撃した。
小田政光は隆信軍を迎え撃ったが敗れ、小曲城に籠城したが、遂に和睦して隆信の配下となった。
永禄元(1578)年、隆信は小田政光らに勢福寺城に籠る少弐冬尚の攻撃を命じた。この戦いでは隆信に降った諸将と少弐軍が入り乱れて戦い、この戦いの中で政光は壮絶な討死を遂げた。
隆信はその討死を認めると兵を小曲城に向けてこれを攻略し、政光の子鎮光、増光らは逃亡して、小田氏は命脈を保った。
永禄2(1559)年、鎮光は隆信に許されて小曲城に帰城する事ができた。しかし、大友氏の勢力が肥前に拡大してくると、鎮光が大友方とも交誼を結んでいる事が疑われた。
永禄11(1568)年、鎮光は多久梶峯城に移され、小曲城には鎮光の養子となった隆信の三男、龍造寺長信(後藤家信)が入城した。これによって、小田氏の小曲城支配は終焉を迎えた。
天正5(1577)年、長信が後藤氏を継いで後藤山城へ移ると、替って龍造寺家晴が城主となった。
天正12(1584)年、隆信が沖田畷の戦いで討死すると替って鍋島直茂が入城した。その後、直茂が隆信の嫡男政家を輔弼する事になると、替って天正17(1589)年、隆信の次男江上家種が入城した。
文禄2(1593)年、家種が文禄の役で渡海中に没すると、石井正国らが城代として入城した。
元和元(1615)年、一国一城令が発布され、小曲城は廃城となった。
寛永15(1639)年、佐賀藩初代藩主、鍋島勝茂の三男直澄が52600石で分封され、小曲城の跡に新たに陣屋を築いた。これが蓮池城(正確には蓮池陣屋)である。
鍋島氏はこれ以後9代に渡ってこの地を治め、9代直紀の時に明治維新を迎えた。
 現  況 城址は蓮池公園となっている。
佐賀江川の付替えで城址の真中を川が横切る形となったが、その分南側に伸ばす形で公園用地が確保されている。
城址北側の公民館のところに、陣屋の図面が表示されているが、方向が不明なために、陣屋がどのような構成であったかが良くわからない。

西北側水濠

西側水濠

蓮池神社

お水掘

佐賀江川北側
南東側

艤舟湾

東北側石塁

東北側水濠

蓮池陣屋図

陣屋北側水濠

陣屋北側水濠

陣屋北西側水濠

お水掘

東南側水濠

東南側水濠

東南角水濠

小曲城址標柱

東側水濠

蓮池公園南側

南西側水濠

西南側水濠

西側水濠


浮島

浮島

浮島

稲荷社

築山
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