帝國博物学協会
肥前國
日野江城
 所在地 長崎県南島原市北有馬町戊
 交通機関 島原鉄道 島原駅下車 島鉄バス 日野江城前下車 徒歩30分
 別  名 日之江城・火ノ江城・日ノ枝城
 略  歴 日野江城は、建保年(1213-19)間に藤原純友の子孫を称した藤原経澄により築城されたのが創築である。
この経澄が有間氏を称したのが有馬氏の創始であり、代々この地を治めてきた。
戦国期に入ると有馬氏は肥前南部に勢力を伸ばし、貴純の頃には原城を築城、後に十一城と呼ばれる支城群を形成している。
有馬氏が全盛期を迎えたのは10代晴純の頃で、島原半島の大半を傘下に入れていた。
戦国末期、有馬義貞の頃になると、大友宗麟や龍造寺隆信の圧迫を受けて、領域を大きく減じて、元亀2(1571)年、晴信が家督を継ぐ頃には、隆信に臣従せざるを得なくなった。
天正12(1584)年、晴信は島津義久と手を結んで、隆信を沖田畷の戦いで討死に追い込んだ。
晴信は熱心なキリシタンで、有馬氏の領内の神社仏閣は破壊され、数万ともいわれる領民がキリシタンに改宗した。これが後年の島原の乱に結びついたとされる。
また、天正8(1580)年には、イエズス会の宣教師によってセミナリヨが日野江の城下に創設された。
天正10(1582)年、晴信は大村純忠らと共に、セミナリヨの卒業生で編成した「天正遣欧少年使節」をローマ法王のもとに送っている。
天正15(1587)年の豊臣秀吉の九州征伐では、逸早く秀吉の下に馳せ参じて、所領を安堵された。
日野江城から金箔の軒丸瓦が発見されており、現在残るような城となったのはこの頃であろうと考えられる。 慶長5(1600)年の関ヶ原合戦では、在国のまま西軍に属したが、西軍敗戦の報に東軍へ寝返り、加藤清正らと小西行長の宇土城を攻略し、旧領を安堵された。
慶長14(1609)年、岡本大八事件に連座した晴信は甲斐初鹿野に幽閉された後、切腹となったが、嫡男の直純の室が徳川家康の外曾孫で養女国姫であったことから改易を免れた。
直純は、幕命に従ってキリシタンを迫害したが、多くの領民を死罪に追い込む事に疲弊し、転封を願い出て許され、慶長19(1614)年、日向 延岡城へ転封となった。
日之江領は一時天領となるが、元和2(1616)年、大和五条から松倉重政が入封すると、日野江城に不便を感じて新たに島原城の築城を開始した。
日野江城はの建物や石垣は、島原城築城の資材として転用され、日野江城は廃城とされた。
 現  況 城址は島原半島の南端に近い北有馬地区にある。
城は、本丸を中心に北側に三之丸を、南側に二之丸を配した縄張りである。
城への登城は、大手口、浦門口の他に抜け道のような道がある。
現在の主な登城口は浦門口となっており、道路が整備されている。一方大手口からは登城できないらしいが、時間の関係で大手口を見ることができなかったのが悔やまれる。
城址は国指定史跡となっているが、旧北有馬町の町長が無知のため、強引に城域の公園化のため桜を植樹したためである。
新たに南島原市となった町の課題は、この破壊されてしまった城址をいかに旧状に復旧するかであろう。
セミナリヨ跡 セミナリヨとは16世紀にヨーロッパの教育制度を導入して、イエズス会の巡察師ヴァリニャーノによって設置されたキリシタンの中等教育機関である。
天正8(1580)年、有馬晴信の援助を受けて日野江城下に日本で初めてのセミナリヨが設置されたのが、有馬のセミナリヨである。

セミナリヨ跡

セミナリヨ跡
浦門口 日野江城の搦手にあたる登城路である。
現在は主要な登城路となっており、虎口の石垣が残されている。

浦門口虎口

浦門口碑

浦門口跡標柱
間道 日野江城往時からあったかは不明であるが、城下から直接二之丸に至る登城路である。
途中に空掘の遺構などを見ることができる。

間道入口

桝形状の空間

登城路

平場

登城路

平場

横掘
三之丸腰曲輪 三之丸の下、数メートルの場所にある帯状の曲輪である。
西側に平虎口があり、石垣遺構が残されている。

虎口前の平場

三之丸腰曲輪
平虎口石垣

三之丸腰曲輪
平虎口石垣

三之丸腰曲輪
平虎口内側

三之丸腰曲輪

三之丸腰曲輪
と三之丸切岸

三之丸腰曲輪
三之丸 本丸南側に広がる城内最大の曲輪である。

三之丸

三之丸

三之丸と本丸

三之丸

二之丸
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