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| 所在地 | 佐賀県佐賀市本庄町鹿子上飯盛 |
| 交通機関 | JR長崎本線 佐賀駅下車 佐賀市営バス 鹿の子下車 徒歩15分 |
| 別 名 | 鹿子の塁・飯盛館 |
| 略 歴 |
飯盛城は、 永享3(1431)年、少弐資嗣が築いたと言われている。
石井式部大輔忠保が小城郡から平野部である佐嘉郡与賀庄飯盛村に進出した際に居城した。 石井氏は下総猿島郡から主家千葉氏に従って肥前に移住したと言われており、戦国期になって千葉氏が衰退すると、千葉氏に替って龍造寺氏との関係を深めていった。 石井氏の飯盛移住は、その関係を更に深くするものであった。 石井氏は代々多くの分家を造るとともに、石井党と呼ばれる武士団を形成して、龍造寺康家・家兼・隆信の三代に渡って重臣として仕えた。 天文20(1551)年、龍造寺隆信が村中城を追われて筑後に退いた際には、豊後大友家に味方する高木城・高木鑑房と八戸城・八戸宗暘らの軍勢によって、飯盛城は占拠された。 天文22(1553)年、龍造寺隆信が村中城に復帰すると、石井常延が軍勢を率いて飯盛城の奪還に成功した。 沖田畷の合戦では、龍造寺氏の総帥隆信が討死しているが、石井党からも多くの戦死者を出している。 石井兵部大輔常延が当主の時、龍造寺家臣団で最大の勢力を誇る鍋島直茂に次女彦鶴が嫁いでいる。 鍋島直茂が龍造寺政家に替って肥前に大封を得ると、石井氏は初代佐賀藩主勝茂の外戚として重臣として寓された。 天正8(1580)年12月には常照院が移転しているので、この頃には廃城になっていたと考えられる。 |
| 現 況 |
飯盛城は、方形館を基本とする城であったと考えられ、南方に向かって連郭式に曲輪が配置されていたことが、現在残されている遺構からも確認できる。 城址には石井氏の菩提寺常照院があり、境内には石井常延など石井氏の墓地がある。 寺の周囲には水濠が残されており、城址の雰囲気をよく伝えている。 |
![]() 主郭西側水濠 |
![]() 主郭北側水濠 |
![]() 主郭東側水濠 |
![]() 主郭北東角 |
![]() 主郭東側水濠 |
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![]() 主郭西側水濠 |
![]() 主郭西南角 |
![]() 主郭南西角 |
![]() 常照院 |
![]() ニ曲輪西側 |
![]() ニ曲輪 |
![]() ニ曲輪南側水濠 |
![]() 三曲輪北西角 |
![]() 三曲輪西側水濠 |
![]() 三曲輪西側水濠 |
![]() 飯盛城址遠望 |
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