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| 所在地 | 佐賀県唐津市東城内ほか |
| 交通機関 | JR唐津駅下車 徒歩20分 |
| 別 名 | 舞鶴城 |
| 略 歴 |
文禄2(1593)年、文禄の役で朝鮮出兵中であった上松浦郡一帯の領主波多氏は、豊臣秀吉の不興を買い、領地没収、改易となった。 文禄4(1595)年、秀吉はこの地に寺沢志摩守広高を83000石で封じた。広高は浦島山と呼ばれたこの地に、築城を開始、折からの朝鮮出兵駐留軍である九州諸大名からの支援で、大規模な城を完成させた。 城内には、その時に加勢を受けた諸大名の受け持ちをあらわす、肥後堀、佐賀堀などの堀名が残されている。 慶長5(1600)年の関が原の合戦では、広高は東軍に属したため、戦後天草4万石を加増され12万3千石の大名となったため、名護屋城の解体資材や岸岳城の資材などを利用して城を拡張した。 寛永14(1637)年、天草の乱が発生したため、広高の子堅高は天草領を没収された。堅高はその裁定に抗議して正保4(1647)年に自刃、寺沢氏は改易になった。 この後一時期幕府の直轄領となったが、慶安2(1649)年、播磨明石城より大久保忠職が83000石で入封した。 延宝6(1678)年、大久保氏が下総佐倉城に転封し、入替えで松平(大給)乗久が入城した。 松平氏3代松平乗邑は、元禄4(1691)年に志摩鳥羽城に転封となり、入替わりで土井利益が7万石で入封した。 土井氏は4代に渡って唐津藩を治めたが、宝暦12(1762)年、利延の時に下総古河城に転封となり、替って三河岡崎城から水野忠任が入城した。 水野氏は4代に渡って唐津藩を治めたが、4代目は、後に天保の改革を行った水野忠邦であったが遠江浜松城に転封となった。 替わって唐津城に入ったのは、陸奥棚倉城から小笠原長昌が6万石で入封し、小笠原氏のもとで明治維新を迎えた。 |
| 現 況 |
唐津城の遺構は、非常に良好に残されている。 本丸には、資料館として模擬天守が建てられており、門や櫓なども復元されている。 ユニークなのは、麓の下曲輪から本丸まで、有料のエレベーターがついている。 本丸・二之丸など、山上の郭は、石垣がよく残されており海沿いの曲輪にも、櫓などが復元されている。 一方、二之丸御殿跡には学校が建てられてはいるものの、石垣は残されており、二の堀の石垣、三の丸の石垣なども、市街各所に残されている。 大手付近は完全に市街化してしまっているが、市庁舎の前には肥後掘が復元されている。 今回訪城時、西門口石段付近の石垣調査のため、西門が外から見られなかったのが残念である。 |
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![]() 三之丸西南 角櫓櫓台 |
![]() 市役所入口 |
![]() 三之丸西南側 石垣 |
![]() 三之丸西南側 石垣 |
![]() 三之丸西南側 石垣 |
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![]() 三之丸南側 石垣郭内側 |
![]() 市役所入口の 冠木門 |
![]() 市役所正面 |
![]() 肥後掘 |
![]() 三之丸模擬 平櫓 |
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![]() 大手門跡付近 |
![]() 埋門跡 |
![]() 埋門跡 |
![]() 三之丸北側 石垣 |
![]() 三之丸北側 石垣 |
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![]() 三之丸北側 石垣 |
![]() 三之丸西北 櫓台石垣 |
![]() 三之丸西側石垣 |
![]() 三之丸西北 櫓台石垣 |
![]() 三之丸西ノ門 付近石垣 |
![]() 三之丸西側 石垣 |
![]() 三之丸西側 石垣 |
![]() 唐津藩藩校 中門 |
![]() 唐津藩藩校 中門 |
![]() 時の太鼓櫓 |
![]() 辰巳櫓 |
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![]() 二ノ門堀 |
![]() 二ノ門堀 |
![]() 二ノ門跡 |
![]() 二ノ門堀 |
![]() 二之丸南側 町田川沿い石垣 |
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![]() 二之丸南側 町田川沿い石垣 |
![]() 町田川対岸 より主郭を望む |
![]() 南曲輪模擬櫓 |
![]() 南曲輪模擬櫓 |
![]() 船入門跡 |
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![]() 町田川沿いの 石垣 |
![]() 水入門跡 |
![]() 二之丸北側 石垣 |
![]() 二之丸北側 石垣 |
![]() 武家屋敷門 |
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![]() 二之丸北側 石垣 |
![]() 二之丸北側 石垣 |
![]() 二之丸北側 石垣 |
![]() 二之丸北西端 石垣 |
![]() ニノ門外掘 |
![]() 北ノ門跡 |
![]() 中心郭群 |
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