帝國博物学協会
肥前國
名護屋城
 所在地 佐賀県唐津市鎮西町名護屋
 交通機関 JR唐津駅下車 徒歩10分 昭和バス 大手口バスセンター乗車 名護屋城博物館入口下車 徒歩5分
 別  名 名護屋御旅館
 略  歴 天正19(1519)年、豊臣秀吉は、明を服属させるべく使者を送ったが、相手にされなかったため、唐入を決意し、その本営として、名護屋城を築城した。
城地としたのは、上松浦郡一帯の領主波多親の家臣で名護屋経の居城であった垣添城の地であった。
名護屋城は、加藤清正・寺沢広高らの指揮で築城され、全国の諸大名に割普請が命じられ、翌年の2月には、5ヶ月足らずの日数で完成した。
文禄元(1592)年3月、秀吉は聚楽第を進発すると同月内に名護屋城に着陣した。
西国の諸大名を中心とする158000もの軍勢が一斉に朝鮮半島に渡海し唐入が開始された。
朝鮮半島に上陸した唐入軍は、加藤清正・小西行長を先鋒として連戦連勝、瞬く間に首都平壌を攻略した。しかし、明軍が朝鮮軍を支援して反撃に出ると、各地で民衆の叛乱が激化して唐入軍は苦戦を強いられる事になった。
文禄2(1593)年、戦線が膠着すると、小西行長・宗義智の主導で、講和が結ばれる事となった。
慶長2(1597)年、和平が敗れると、再び朝鮮半島に140000万の兵を送るが、戦いに利あらず、各地に築いた倭城に籠って防戦一方となっていった。
名護屋城は、朝鮮半島への補給基地として機能したが、実際に秀吉がこの城に滞在したのは、わずか1年余りであったと言われている。
慶長3(1598)年、秀吉が没すると、後事を委ねられた徳川家康を中心とする五大老は、朝鮮半島からの撤兵を決め、唐入軍は、この決定に従って半島から撤収した。
名護屋城はその使命を終え廃城となり、建物は払い下げられ、大手門は仙台城大手門として移築されたと言われている。
残された資材は、この地の領主となった、寺沢広高によって、自らの居城、唐津城を築くための資材として利用された。
寛永15(1638)年、島原の乱の終結後、更なる叛乱の発生を恐れた幕府は、全国の城址の破城を指示、名護屋城址も再度破壊された。
 現  況 名護屋城址は、国の指定史跡となっており、本丸・二之丸・三之丸・弾上丸・東出丸・水手曲輪・遊撃丸などの曲輪が良く残されている。
また、近年名護屋城博物館が城址近郊に建てられて、城址の歴史と文禄・慶長の役の実態を伝えている。
現在、各地で発掘作業が行われており、近年山里丸虎口が復元された。
一方で、島原の乱以降に施された、破城の実態を調べる時には、良い例となる。
城址の残されている遺構は、「肥前名護屋城図屏風」に記されたものと、ほぼ同じ内容である事から、図屏風の信憑性が嫌が上にも高まっている。
城址大手口には、時を告げたと言われる櫓の櫓台が残り、その脇には仙台城に移築されたと言われる、大手門が建っていた。
本丸には、海軍元帥東郷平八郎書の名護屋城城址碑があり、また「太閤が睨みし海の霞かな」と刻まれた碑が、玄界灘を見下ろしている。
大手前〜大手道

大手前井戸

大手口

大手前石垣

大手口石垣

大手門跡と
櫓台石垣

大手口坂

名護屋城址碑

大手門跡と櫓台

大手坂

大手門跡と櫓台
東出丸

東出丸遠望

大手門跡より
東出丸を望む

東出丸南面
石垣

東出丸と櫓台

東出丸

東出丸櫓台と
三之丸虎口
三之丸

三之丸虎口石垣

三之丸虎口

三之丸跡

三之丸上段石垣

三之丸南西櫓台

三之丸井戸

三之丸跡

三之丸上段
仕切門跡

三之丸上段跡

三之丸上段西側
本丸石垣

三之丸上段跡

南西櫓門跡

南西櫓門跡
水手口

水手門跡

水手門跡

水手門跡

北側中段石垣

水手口坂

水手口坂

水手口門跡

水手口石垣
船手口〜二之丸

船手門遠望

船手門遠望

二之丸北面石垣

船手門跡

船手門跡

二之丸北面
石垣

二之丸長屋
建物跡

本丸より二之丸
を望む
遊撃丸

遊撃丸西面
石垣

遊撃丸虎口

遊撃丸虎口

遊撃丸跡

遊撃丸跡

遊撃丸虎口と
天守台

遊撃丸水手虎口

遊撃丸北側
石垣

天守台より
遊撃丸を望む

その2
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