帝國博物学協会
肥前國
佐賀城
 所在地 佐賀県佐賀市城内2-18-1
 交通機関 JR佐賀駅下車 徒歩10分 佐賀市営バス 佐賀城前下車 徒歩5分
 別  名 佐嘉城・栄城・沈み城・亀甲城・村中城
 略  歴 肥前龍造寺氏は高木季家を始祖とすると言われている。季家の子、季益は佐賀郡の長瀬館に住んで、この地方を治め、以降代々この地を本拠とした。
明応元(1492)年、康家の子家員が本家を継ぎ、村中龍造寺氏が成立、家兼が分家として新たに水ヶ江城を築き、水ヶ江龍造寺氏が成立した。
この頃には村中城が龍造寺家の主城となっていたと思われる。この村中城が佐賀城の前身である。
龍造寺家は少弐氏に仕えていたが、大内氏との戦いで小弐資元が敗死すると、水ヶ江龍造寺家兼が馬場頼周の陰謀によって肥前に追われたため、大内氏に協力を仰いで領国の奪回を果たした。
家兼は天文15(1546)年に卒し、曾孫の円月が還俗して家督を継ぎ、胤信と称した。
天文17(1548)年、本家の村中龍造寺胤栄が没した。胤栄には継嗣がなかったため、老臣の合議によって、水ヶ江龍造寺胤信を迎えて本家を相続させる事になった。
胤信は胤栄未亡人と結婚して、本分家を合一させると、天文19年、大内義隆の偏諱を受けて隆信と名を改めた。
隆信の後ろ盾であった大内義隆が、家臣陶隆房の謀叛で滅ぶと、隆信の家督を快く思わない老臣土橋栄益が反隆信派を糾合して、豊後の大友氏と通じて叛乱を起した。
この蜂起によって、隆信は一族共々居城村中城を追われた。代って村中城には小田政光が入城した。
柳川城主蒲池鑑盛の支援によって天文22(1553)年、高木勢を若村で敗走させ、村中城を奪回した。
これ以降、隆信は勢力を拡大し、大友方の諸城を攻略、かつて支援を受けた蒲池城をも攻略している。
天正12(1584)年、島津氏が6000の兵が有馬晴信の支援要請に答えて派兵された。龍造寺軍と連合軍は沖田畷で激突し、隆信はこの戦いで討死してしまった。
隆信の後は、嫡男の政家が継いだが、政家の器量を危ぶんだ一門・重臣合議によって、一族の鍋島直茂に領国支配権を譲ることとなった。
龍造寺家は政家の嫡子高房が継ぐが、慶長12(1607)年に高房が自害し、龍造寺氏宗家が断絶すると、名実共に肥前の支配権は鍋島直茂に移った。
慶長13(1608)年、直茂は龍造寺氏の居城であった村中城の拡張・大改修工事に着手し3年の歳月をかけて、佐賀城を完成させた。
佐賀城は、その後鍋島氏360000石の居城として、12代にわたって繁栄した。
享保11(1726)年、火災によって天守以下本丸建造物の大半を焼失した。
その後、天守以外の建物を復元したが、明治7(1874)年、江藤新平らが新政府の武士政策に不満を持って決起した「佐賀の乱」によって、佐賀城の大部分は焼失してしまった。
 現  況 佐賀城址は、旧家臣屋敷が官庁街になっている。
本丸付近は佐賀城公園となっており、現存の鯱の門がある。平成16年には本丸御殿の一部が復元され、他所に移築されていた御座間・堪忍所も元の場所に戻されている。
城は群郭式と呼ばれる縄張りで、有力家臣は、掘割で独立した屋敷を、郭内に持っていた。この掘割についても、比較的良く残されている。
その一方で、東側の堀は、その一部が水路として残されている以外は、完全に埋め立てられている。
二之丸西側の堀跡は、既に建物などが撤去されており、近々堀が復元されるような気がする。
城外(万部塔)
佐賀藩初代藩主鍋島勝茂から代々の藩主・嫡男が自ら願主となって、藩の安泰と領民の息災を祈願し、法華経一万部読誦の結願石塔として建てたものである。

解説版

万部塔
家臣屋敷

鍋島隼人邸南面

鍋島隼人邸
南西角

鍋島隼人邸南側
水濠

鍋島隼人邸西側
水濠

鍋島隼人邸西側

右鍋島隼之助邸
左諫早兵庫邸跡

西側水濠

鍋島十左衛門邸跡

西側水濠

西北角

鍋島十左衛門邸
跡と水濠

西北角

北西側水濠

北西側水濠

北之門脇水路

鍋島家用地の
石標

北之門跡

神代対馬邸跡
北側

神代対馬邸跡
北側

鍋島阿波邸跡
北側

元鷹屋跡北側

東北角

東北角水濠

東北角水濠

元鷹屋跡北土塁

元鷹屋・鍋島阿波
邸間の水路

鍋島阿波邸
北側土塁

櫓台?

東側土塁

東側土塁

東側土塁

東側土塁

東之門北土塁

東之門脇水路

東側堀跡

東側水濠

東側水濠

東側水濠

東側水濠

東側水濠

東側水濠跡

東側水濠跡

東側水濠

倉永家厩屋敷跡
石碑
三之丸・西之丸

三之丸南水濠

三之丸南面

三之丸跡

三之丸南面

三之丸跡

三之丸南水濠

三之丸南面

佐賀城石垣

西之丸南面

西之丸南面

主郭部
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