帝國博物学協会
肥前國
三城城
 所在地 長崎県大村市三城町
 交通機関 JR大村線 大村駅下車 徒歩10分
 別  名 -
 略  歴 永禄7(1564)年、家督相続を巡って大村純忠は後藤貴明と対立していた。
貴明は反純忠派の家臣と共謀して純忠を苦しめた。
純忠は大村館ではこれらの叛乱や、周囲の強国からの圧力を支えきれないと考え、新たに三城城を築城した。
元亀3(1572)年、貴明は松浦勢、諫早西郷勢の助勢を受けて三城城を急襲すると、家臣が入城する間もなく完全包囲を完了した。
城内には純忠と七名の家臣(朝長純盛・朝長純基・今道純近・藤崎純久・宮原純房・渡辺純綱)のほか、総勢80名程の家人や婦女子がいただけであったが、この勢力で籠城した。
対する攻撃側は1500の軍勢が一斉に攻撃を開始したが、城内では婦女子に旗を持たせて走り回るなど、籠城軍を多く見せる事に腐心した。
城外では純忠の家臣らがこの事態に入城できずにいたが、富永又助が西郷勢に味方すると見せて総大将、尾和谷軍兵衛に接近、期を見て軍兵衛に切り付けて西郷軍を撹乱させ、その勢いをもって入城する事に成功した。
こうして軍勢を整えた純忠は貴明に反撃を開始し、この攻撃に耐えかねた貴明は軍勢を引いた。この戦いを大村家では後に「三城七騎籠」と呼んだ。
こうして一旦は自立を勝ち得た大村氏であったが、龍造寺隆信の前に屈して嫡子喜前を人質に差し出し、自らは坂口館に隠棲することとなった。
天正12(1584)年、龍造寺隆信は沖田畷の戦いで討死、これを境に龍造寺氏は衰退し、九州一円は島津氏の勢力圏となった。
天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州征伐の際には、純前も参陣して領地を安堵された。
慶長3(1598)年、純前は新城として玖島城の築城を開始し、翌年居城を移した。これによって三城城は廃城となったと思われる。
 現  況 城址は富松神社背後の忠霊塔を主郭とし、その東北側に二曲輪・北側に三曲輪を配した三つの曲輪から構成されており、西側麓には居館が置かれていたと考えられる。
西側麓の居館跡の周囲の土塁が良く残っている。
主郭は忠霊塔となっており、東側の土塁が一部残されているに過ぎないが、東側腰曲輪には井戸が残っている。
ニ曲輪では発掘がされており、縄張り図などを示した案内板が立てられている。
一曲輪と二曲輪の間には、「千綿掘」と呼ばれる大空掘が残されている。
居館

南側土塁

西側土塁と
堀跡

西側土塁上

居館内部

西側土塁上

西側土塁と
堀跡

西側土塁内側

居館内部

富松神社
三曲輪

三曲輪東堀

三曲輪東堀

三曲輪東堀
二曲輪

二曲輪西側

二曲輪

二曲輪

法凝印塔

二曲輪

案内板

二曲輪

二曲輪と案内板

二曲輪南側
南帯曲輪

井戸

南帯曲輪

一曲輪
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