帝國博物学協会
日向國
清武城
 所在地 宮崎県宮崎郡清武町上加納字城内
 交通機関 JR日豊線 清武駅下車 徒歩10分
 別  名 清瀧城
 略  歴 南北朝期の文和年(1352〜56)間に築城されたと言われており、当時は清瀧城と呼ばれていた。
天授5(1379)年、都於郡城伊東氏の一族、伊東祐行が入城して城を拡張した。これ以降清武城と呼ばれ、祐行は清武氏を称した。
文明17(1485)年、飫肥城攻めの後詰として伊東祐尭が入城している。
伊東氏の全盛期には、伊東氏四十八城のひとつとして数えられ、長倉伴九郎、上別府宮内少輔など有力者が城主となっていた。
天正5(1577)年、薩摩の島津氏に敗れて伊東氏が没落すると、島津氏の武将で伊集院久宣が入城した。
久宣はこの城から肥後・豊後などを転戦し、天正15(1587)年鶴崎城攻城戦に参加したが、豊臣秀吉の九州征討軍の報に接して撤退中に討死している。
島津氏が秀吉に服すると、飫肥城には伊東祐兵が28,000石で入城、清武城には家臣の稲津掃部助重政が入城した。
慶長5(1600)年、重政は東軍に味方した証として、西軍に属していた高橋元種の持城である宮崎城の攻略を画策、総大将として宮崎城を攻略したが、この時点で高橋氏が東軍に寝返っていたため、重政の突出は家中での孤立招く事となった。
慶長7(1602)年、2代目藩主となった祐慶は詰問状を作って重政を罷免しようとした。
重政はこれに反発したため、やむなく祐慶は重政に切腹を命じた。
重政は遂に僅かな手勢で居城の清武城に籠城したが、祐慶の派遣した兵に攻められて落城、重政は討死した。
戦後、河崎駿河守祐長が入城したが、元和元(1615)年の一国一城令で廃城となった。
 現  況 清武城址は南九州自動車道路が南側を通ったために、削られて南側の遺構の多くを失ってしまった。
主郭付近に城址碑や案内板が立てられているが、原則的には畑や果樹園になっており、明確な遺構を確認できない。
山城特有の切岸や多くの平場があるが、どこまでが往時の遺構に近いのか、判別する事は難しい。
遠望

清武城遠望
南曲輪群

南西側平場

神社らしい建物
がある平場

堀切

堀切北東の平場

堀切北東の平場

堀切北東の平場

柑橘類系畑の
平場入口

柑橘類系畑の
平場入口

高速道路北の
道路

南西の曲輪
西側の土塁

土塁

南西の曲輪

南西の曲輪
東側
北曲輪群

主郭北堀切

主郭北堀切

主郭北の谷地

主郭北面

北郭群への道

北郭群への道

北側の曲輪
下段の平場

北側の曲輪
下段の平場

北側の曲輪
上段の平場
西曲輪群

大手道

主郭大手前の
平場

主郭南西側の
平場

主郭南西側の
平場

主郭南西側の
平場

西郭群への虎口

西側曲輪群の切岸

西郭群から主郭
への坂虎口

西側曲輪群の切岸

西側曲輪群

西側曲輪群の
切岸

西側曲輪群

西側曲輪群の
切岸

西側曲輪群の
切岸

主郭大手前の
平場
主郭大手曲輪

大手曲輪虎口

大手曲輪

大手曲輪と主郭

大手曲輪

大手曲輪虎口
主郭

主郭への大手道

南側切技師

主郭への大手道

主郭から
大手曲輪を望む

主郭

主郭

主郭

城址碑と案内板

主郭東の切岸

搦手口
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