帝國博物学協会
日向國
佐土原城
 所在地 宮崎県宮崎市佐土原町上田島
 交通機関 JR日豊線 佐土原駅下車 宮崎交通バス 舞鶴公園下車、徒歩5分。
 別  名 田島城・松鶴城
 略  歴 工藤祐経の子伊東祐時が日向の地頭として下向し、その四男祐明が田島と呼ばれていたこの地に住み、田島氏を名乗ったと言われている。
佐土原城の築城時期ははっきりとしていないが、南北朝期に田島休助が築城したとも、伊東祐賀によって築かれたともいわれているが、田島城という城の名前から考察すると、田島休助による築城と考えられる。
田島氏の本家である伊東氏が都於郡城に入城すると、田島氏はその勢力を失い、伊東本家から伊東祐立の子祐賀が入城する。
祐賀は、田島氏を名乗らず、佐土原氏を名乗った。この頃から佐土原城と呼ばれるようになったと思われる。
佐土原城が最も繁栄したのは、天文12(1543)年からのことである。この頃の領主は伊東義祐で、佐土原城に本城を移していた。
永禄11(1568)年、義祐は飫肥城を攻略すると、伊東氏48城と呼ばれる拠点を構え、都於郡城と佐土原城はその中心となった。
また、孫の義賢を都於郡城に入れ、家督を譲った。これにより、伊東氏の本城は再び都於郡城に戻り、佐土原城は義祐の隠居城となったが、義祐は後見人として実権を握ったままであった。
元亀3(1572)年、義祐は島津氏の領地に野心を抱き、加久藤城を攻めたが、却って敗北し、以後勢力を失った。
佐土原城が島津氏の配下に入ったのは、遅くとも天正5(1577)年の事であり、城主として家久が入城した。
慶長5(1600)年、家久の跡を継いだ豊久は、関が原の合戦において西軍に属し敗戦した島津義弘を逃がすため、殿軍となって戦死、佐土原城は没収となった。
慶長8(1603)年、島津以久が佐土原城に入城し、初代佐土原藩主となった。
寛永2(1625)年、二代藩主忠興は、山上の建物を壊して、山麓の二之丸に移して居館し、以後は山麓の館が中心となった。
以後、島津氏が代々藩主で明治維新を迎えるが、明治3(1870)年、広瀬城を新たに築いて移り、佐土原城は廃城になった。
なお、広瀬城はその後の廃藩置県により完成しないまま廃城となった。
 現  況 佐土原城址は、山上の中世の城址と山麓の藩政期の城址とに別れる。
山麓の二之丸には、往時の二之丸御殿を復元した、佐土原城跡歴史資料館、鶴松館が建てられている。
山上には、松尾丸、南之城、本丸、天守台などの郭が残されている。 近年の台風で、木の損壊が目立っており、かなり山が荒れている状況であった。
南之城、本丸には桝形虎口が残されており、南之城の下には堀切が堀底道となっている。
本丸には、天守台跡が残されており、天守台石垣が草の中に埋れて存在している。
なお、訪城当日はとても暑く、鶴松館を管理をされている方にはお茶をいただいたり、バス停をご紹介いただいたり等、大変お世話になりました。お礼を申し上げます。
二之丸

会所跡

内堀跡

二之丸土塁と
復元御殿

復元御殿
鶴松館

復元御殿車寄

復元御殿

復元御殿

復元御殿

復元御殿裏側
ニ之丸〜松尾丸

登城路

登城路

登城路

登城路

登城路

堀切

松之丸虎口
松尾丸〜南之城

南之城下

南之城虎口

南之城虎口

南之城跡

堀切(堀底道)

南之城跡
本 丸

本丸虎口

本丸虎口

本丸跡

本丸跡

本丸跡標柱

本丸跡

天守台遠望

本丸土塁

天守跡

天守台石垣

天守台より
本丸を望む
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