帝國博物学協会
日向國
紫波洲崎城
 所在地 宮崎県宮崎市折生迫上白浜
 交通機関 JR日南線 折生迫駅下車 徒歩20分
 別  名 折生迫城
 略  歴 南北朝期の応永年(1394〜1428)間、長井氏によって築かれた。
文安元(1444)年、都於郡城の伊東祐堯は、紫波洲崎城主の長井式部少輔に降伏を勧告した。
長井式部少輔は一旦は抵抗の姿勢を示したが、結局伊東氏の勧告を受け入れて開城し、城は無血で伊東氏のものとなった。
祐堯は城主として川崎五郎左衛門を入城させた。
文明12(1480)年、木脇右馬頭・日高周防介らが島津氏に内通したため、紫波洲崎城は島津方に奪われる事になった。 伊東氏はこれに驚きすぐに出兵、紫波洲崎城を奪還し、平部伊賀守・川崎勘解由らを城主として入城させた。
永禄年(1558〜70)間には川崎上総守が城主となっていたことが判っている。
天正5(1577)年、伊東義祐が木崎原合戦に敗れて没落、家臣の離反が相次いで、本城佐土原城・累代の本城都於郡城を捨てて豊後に逃亡した。
城址にある碑によると、当時の紫波洲崎城主は川崎大膳虎良武で、島津氏に対抗して籠城したが、衆寡敵せず自刃したとされる。
島津氏は家臣上井伊勢守覚兼を宮崎城に入れ、その父である薫兼を紫波洲崎城を入れた。
天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州征討敗れた島津氏は、薩摩・大隅の2国に押し込められ、飫肥城に伊東祐兵が入城すると、稲津因幡守が城主として入城した。
更に、慶長期に入ると、借屋原甚右衛門が城主を務めている。
元和元(1615)年の一国一城令で廃城となった。
 現  況 紫波洲崎城址は城山公園となっており、海側からの取り付け道路で主郭直下の駐車場まで車で登る事ができる。
主郭には仏舎利塔が建てられており、遺構らしきものを見る事はできないが、東側や北東側からは、青島や日向灘などの景色がよく見える。
堀切を挟んで南西側の曲輪には、土塁と虎口の遺構が残されている。
また、北西側の腰曲輪入口付近にも、土塁らしき遺構が残されている。
遠望

紫波洲崎城遠望

紫波洲崎城遠望
南西曲輪

堀切

堀切

虎口

虎口と土塁

南西曲輪内
北西腰曲輪

北西側竪掘

北西側堀切

北西腰曲輪と
虎口土塁

北西腰曲輪
主郭

案内板

青島遠望

主郭

仏舎利塔

主郭

展望台

主郭北東側

電波塔

主郭北東側

慰霊碑

慰霊碑の解説板
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