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| 所在地 | 宮崎県西都市都於郡町 |
| 交通機関 |
JR日豊線 宮崎駅下車 宮崎交通バス デパート前乗換・御舟通り乗換・都於郡町下車、徒歩10分 バス本数 非常に少ないため注意のこと |
| 別 名 | 浮船城 |
| 略 歴 |
源頼朝の家臣工藤祐経の一族で、祐経の代官として日向に赴いたのが、日向と伊東氏の繋がりの始まりである。 建武2(1335)年、足利尊氏に従って戦功があった伊東祐持は日向都於郡を与えられ、日向に下向した。 建武4(1337)年、祐持は山幸彦の高屋山稜と伝説のある山上に居城を築いた。これが都於郡城である。 日向では、武家方の国大将の畠山直顕が祐持や土持氏らを従えて、肥後の菊池氏と結んで勢力を広げていた宮方の肝付兼重、木脇伊東祐広と対峙していた。 祐持の死後、祐重が日向に下向した。この時従ったのが、後に伊東氏の重臣となる長倉氏、稲津氏、落合氏であった。 伊東氏の本領の伊豆では、祐重の叔父、祐藤が押領して宮方に転じたため、伊東氏は伊豆の本領を失ってしまった。 日向に居を定めた祐重は武家方として宮方の勢力と戦って勢力を広げると、国人領主勢力も伊東氏に従うようになった。 こうした功によって、足利尊氏から氏の名を下賜され、氏祐と名乗った。 暦応元(1338)年、島津貞久が日向守護に補任され、応安8(1375)年には、島津氏久が日向守護に補任された。 こうして島津氏の勢力が日向に浸透すると、日向北部の県城を本拠とする、古代以来続く国人の土持氏も伊東氏と勢力を争う事となった。 治承元(1177)年、土持氏は居城を県城から井上城へ移し、県城は歴史上から消えた。 応永4(1397)年、島津氏久が清武城を攻撃したことにより、伊東氏と島津氏の本格的な領土争いが勃発した。 伊東氏の勢力が日向一円に広がったのは、祐堯・祐国の頃であり、長禄元(1457)年、財部城の土持氏を降して、重臣の落合民部少輔を財部城に入れた。 文明16(1484)年、飫肥城の新納忠続が櫛間城の島津久逸を除こうとして島津忠昌に訴えたため、久逸は伊東祐堯に支援を求めた。 祐堯は嫡男祐国らを率いて飫肥城を攻撃したが、陣中で没してしまった。 翌17年には祐国が再度飫肥城を攻撃したが、島津忠昌が自ら兵を率いて出陣してきたため、楠原の戦いで祐国は討死し、伊東軍は一敗地にまみれた。 その後、伊東氏は一族間の内訌に終始した。 永正元(1504)年、城内から火災が発生し、都於郡城の主要な部分が焼け落ちてしまい、内訌に明け暮れた伊東氏は、都於郡城を復旧する事が叶わなかった。 この内訌を収めたのが、伊東祐清、後の義祐であった。 天文5(1536)年、祐清は本城である都於郡城ではなく、佐土原城に入城し、ここを本城と定めて伊東氏の家督を継いだ。 都於郡城には嫡男の義益を入れて守らせた。 永禄11(1568)年、義祐は念願の飫肥城を島津忠親より奪って子祐兵を城主とした。 この頃が伊東氏の絶頂期で、伊東48城を従えるまでに勢力を伸ばした。 元亀3(1572)年5月4日、木崎原の合戦で伊東祐信率いる3000の軍が、僅か300の島津義弘軍に敗れると、家臣の離反が相次ぎ、伊東氏は急速に勢力失った。 天正5(1577)年、佐土原城と共に都於郡城も落城、絶頂を極めた義祐は、一族を従えて豊後の大友宗麟を頼って落ち延びて行った。 都於郡城には島津氏家臣の鎌田政親が入城したが、天正15(1587)年、豊臣秀吉の九州征討後、佐土原城島津氏の支城に組み込まれた。 元和元(1615)年、一国一城令をによって廃城となり破却された。 |
| 現 況 |
都於郡城は、南九州特有のシラス台地上に築かれており、本丸・二之丸・三之丸・西の城・奥の城の5つの曲輪と腰曲輪、馬場跡などの遺構が残されている。 特に本丸は、山幸彦の墳墓地として伝説の地とされており、ここでは天正遣欧使節伊東マンショの生まれた地であり、銅像が立てられている。 周囲には東の城、 向の城、南の城、日隠城などの出城が築かれており、拠点城郭としてはかなり大規模であった事が想像される。 また、南馬場には高さ5メートルほどの巨大な土塁が残されている。 |
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![]() 大中寺池 |
![]() 中馬場土塁 |
![]() 中馬場跡 |
![]() 中馬場跡標柱 |
![]() 蔵屋敷・中馬場 間の堀底道 |
![]() 中馬場西切岸 と堀底道 |
![]() 中馬場西切岸 と堀底道 |
![]() 中馬場南道路 |
![]() 中馬場南道路 |
![]() 中馬場南道路 |
![]() 中馬場南道路 |
![]() 中馬場南道路と 東南角 |
![]() 中馬場東南角 から西を望む |
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![]() 御蔵南東側 |
![]() 御蔵南土塁 |
![]() 東側切岸 |
![]() 東側切岸 |
![]() 御蔵北側 |
![]() 御蔵南側 |
![]() 御蔵虎口 |
![]() 御蔵 |
![]() 御蔵 |
![]() 御蔵の寿樹庵 |
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![]() 本壇から南腰曲輪 を望む |
![]() 南腰曲輪 |
![]() 南腰曲輪から 本壇を望む |
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![]() 東腰曲輪 |
![]() 東腰曲輪と 南腰曲輪切岸 |
![]() 東腰曲輪 |
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![]() 本壇北堀切 |
![]() 西側切岸 |
![]() 東側切岸 |
![]() 西之城跡案内板 |
![]() 西之城跡 |
![]() 西之城跡土塁 |
![]() 西之城跡 |
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![]() 腰曲輪切岸 |
![]() 虎口 |
![]() 虎口 |
![]() 腰曲輪 |
![]() 腰曲輪切岸 |
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![]() 三之丸西面切岸 |
![]() 三之丸南面切岸 |
![]() 三之丸南面切岸 |
![]() 登り口 |
![]() 三之丸 |
![]() 三之丸跡案内板 |
![]() 三之丸 |
![]() 三之丸 |
![]() 三之丸土塁と 二之丸側虎口 |
![]() 二之丸・本丸・奥之城 |
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