帝國博物学協会
伊勢國
津城
 所在地 三重県津市丸の内
 交通機関 近鉄名古屋線 津新町駅下車 徒歩10分
 別  名 安濃津城
 略  歴 元亀2(1571)年、長野信良が城を築いたのが、津城の始まりである。
永禄11(1568)年、伊勢を征服した織田信長は、弟の信包を安濃津に入れた。信長の伊勢攻略は、養子縁組によって名跡を残すと言うもので、北畠・神戸氏に息子信雄・信孝を養子として送り込んだと同様、信包は長野氏の養子として送り込まれた。
信包は、天正8(1580)年に五層の天守を築いて、城の整備を行っている。
文禄3(1594)年、信包は秀吉の命により丹波柏原陣屋へ移され、富田知高が5万5千石で入城した。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦では冨田氏は東軍に属した。そのため、津城は関ヶ原合戦の前哨戦として西軍毛利秀元・長宗我部元親ら3万によって包囲された。
知高は1300の軍勢で籠城、善戦したが、押し寄せる大軍に包囲されて遂に降伏、剃髪して高野山に落ちていった。
その際の逸話として、知高が敵の攻囲に絶体絶命に陥った際に、城方から一騎の武者が駆けつけて知高の撤退を支援した。この武者は知高の妻であったと言われ、忍城の甲斐姫と並べ賞されている。
戦後、知高はその功績を認められて2万石を加増の上で、旧領の支配を認められた。
慶長13(1608)年、富田氏は伊予宇和島城へ転封し、替って伊予今治城から藤堂高虎が伊勢・伊賀22万石で入城した。
高虎は大坂城の豊臣秀頼に備えるため、津城の大改修を行い、現在見られるような高虎流の高石垣を持つ城として整備した。
大阪の陣の戦功で、高虎は32万3千石に加増され、津城は江戸期を通じて藤堂氏が治め、幕末まで続いた。
 現  況 城址は本丸・西之丸及び周囲の水濠を残して市街化している。
本丸は高虎一流の縄張りを示しており、四隅に三重櫓及び天守を置き、それを渡り櫓で繋いでいたようである。
現在模擬天守が建てられている場所は本来東之丸に続く門の渡櫓のあった場所で、三重櫓の建っていた場所ではない。(そのため、櫓の規模が異様に小さくなっている)
西之丸と本丸の間の水濠は、若干埋め立てられて原型とは異なっている。
西之丸には藩校有造館の入徳門が移築されている。

本丸東大手虎口

模擬三階櫓

丑寅三重櫓跡

本丸北側石垣
と水濠

丑寅三重櫓跡

戌亥三重櫓櫓台

本丸西大手門
虎口石垣

本丸

津城址碑

埋門跡

天守台

天守台

伊賀櫓跡

西之丸二階門跡

玉櫓跡

有造館入徳門

西之丸

丑寅三重櫓櫓台

戌亥三重櫓跡

西之丸石垣
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