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| 所在地 | 愛媛県宇和島市丸の内 |
| 交通機関 | JR宇和島駅下車 徒歩15分 |
| 別 名 | 鶴島城/丸串城/板島城 |
| 略 歴 |
築城年代は不明だが、天慶4(941)年、藤原純友の乱の際に、橘遠保が居城していたと言われている。 その後、嘉禎2(1236)年には、西園寺公経が所領としており、天文15(1546)年には、家藤監物が居城し、大友・長宗我部氏らの侵略に備えていた。 この頃には、板島丸串城と呼ばれていた。 天正3(1575)年、西園寺宣久がこの城を居城とした。 豊臣秀吉の四国征伐が終わると、伊予は小早川隆景の領するところとなり、宇和島には持田右京が城代として居城した。 天正15(1587)年、小早川氏は筑前名島城に転封となり、大洲城に戸田勝隆が入城すると、大串城には家臣戸田与左衛門が城代として入城した。 文禄4(1595)年、藤堂高虎が7万石で入城した。慶長元(1596)年、隆虎はこの城の大改造に着手、現在見られる縄張りとして、宇和島城と名付けた。 慶長5(1600)年、関ヶ原合戦で加増された高虎は、翌6年今治城に転封となった。 慶長13(1608)年、伊勢津城から冨田信高が12万石に加増されて入封した。 富田氏は、義弟坂崎直盛(一般には坂崎出羽守として知られる)との争いが原因となって改易された。 一時天領となったが、慶長19(1614)年、伊達政宗の長子、伊達秀宗が10万石で入封し、以後伊達氏の下で明治維新を迎える。 天守が現在の姿となったのは、寛文11(1671)年の改修時の事である。 その間、天明4年(1784年)落雷で天守を焼失したりしているが、明治維新以降にも度重なる火災や戦災で、多くの建造物を失っている。 |
| 現 況 |
城址には、白亜の現存天守が聳えている。山上部の石垣は、往時の姿を見せており、藤兵衛丸には、山麓郭内の調練場で武器庫として使用されていた、山里倉庫が移築され、郷土館として公開されている。 また、同じ藤兵衛丸には、穂積陳重・八束兄弟の生家の長屋門が移築されている。 井戸口には、藩老桑折氏長屋門が移築されている。 |
| 郭内 | 重臣屋敷が置かれていた。 |
![]() 城山遠望 |
![]() 外桝形角櫓付近 |
![]() 外堀跡 |
![]() 搦手門跡 |
![]() 大手門旧蹟碑 |
![]() 大手門跡 |
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![]() 山家公頼邸宅跡 |
![]() 山家公頼邸宅跡 和霊神社 |
![]() 人麿神社 (御殿庭に祭祀) |
![]() 御井戸 |
![]() 上り立ち門 |
![]() 上り立ち門 |
![]() 上り立ち門 |
![]() 番所跡 |
![]() 上り立ち口石段 |
| 式部丸 | 上り立ち口へ横矢をかけている。 |
![]() 式部丸石垣 |
![]() 式部丸石垣 |
![]() 式部丸石垣 |
![]() 式部丸石垣 |
![]() 式部丸石垣 |
![]() 式部丸石垣 |
![]() 式部丸石垣 |
![]() 式部丸虎口 |
![]() 式部丸土塁 |
| 代右衛門丸 |
![]() 西之矢倉櫓台石垣 |
![]() 西之矢倉櫓台石垣 |
![]() 西之矢倉櫓台石垣 |
![]() 代右衛門丸石垣 |
| 長門丸 |
![]() 長門丸 |
![]() 宇門矢倉櫓台 石垣 |
![]() 宇門矢倉櫓台 石垣 |
![]() 長門丸石垣 |
![]() 北之矢倉櫓台 石垣 |
![]() 宇門矢倉櫓台 石垣 |
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![]() 平矢倉櫓台 |
![]() 平矢倉櫓台 |
![]() 長門丸標柱 |
![]() 宇門矢倉櫓台 |
![]() 北之矢倉櫓台 |
![]() 長門丸石垣 |
![]() 長門丸 |
![]() その2 |
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