帝國博物学協会
紀伊國
雑賀城
 所在地 和歌山県和歌山市和歌浦中2
 交通機関 JR紀勢本線・阪和線 和歌山駅下車 和歌山バス 和歌浦口下車 徒歩5分
 別  名 妙見山城
 略  歴 雑賀城は雑賀衆鈴木佐太夫重意によって築かれたと言われている。
天正5(1577)年、石山本願寺に味方していた雑賀衆攻撃のため、織田信長が紀州に兵を進めた。
雑賀衆は弥勒寺山城を本陣とし、東禅寺山城・上下砦・宇須山砦・中津城・甲崎砦・玉津島砦・布引浜の砦などの支塞を築いて防衛線を構築した。
織田軍は北方の中野城を攻略して本陣とすると、太田城の太田党を先陣として、雑賀衆の籠る雑賀城に迫った。
雑賀城の城主、主将雑賀孫一(鈴木重秀と言われる)は、鉄砲隊を駆使して信長に対抗したが、天正8(1580)年、顕如が仲立ちして降伏した。
天正13(1585)年、秀吉の紀州攻めでは、根来寺と共に反抗する太田城の太田衆が水攻めによって包囲した。
この頃雑賀城にも鈴木孫一を中心とする勢力が籠城していた。
秀吉は、この頃貝塚にいた顕如に「城を明け渡せば速やかに所領を下す」という孫一宛の書状を送り、雑賀城の開城を迫った。 孫一は秀吉方の武将桑山重晴に雑賀城を明け渡した。その後、孫六は秀吉から平井の地に2000石を与えられた。
 現  況 雑賀城址は、雑賀党鈴木氏の根拠地で、紀州徳川家初代頼宣の母養珠院の菩提寺養珠寺の裏山にある。
城址には津屋公園から登ることができる。往時は養珠院から津屋公園にかけて根小屋があったと考えられる。
津屋公園には水濠跡とも思われる池が残されている。
山上南側には妙見堂がある曲輪があり、南方に睨みを効かす櫓があったと考えられる。
北側には千畳敷と呼ばれた主郭があったと言われている。実際結構広い平坦地が残されており、その南端には櫓台と思われる土壇が存在し、曲輪への入口に横矢を仕掛けている。
搦手は、主郭北西側から北端に向かって降りており、現在では廃屋となっている住宅脇を通って、山麓に通じている。

養珠寺境内

津屋公園

水濠

大手口

水濠

大手口階段

帯曲輪

南端の曲輪と
妙見堂

妙見山石柱

南曲輪切岸

帯状曲輪
と土塁

帯状曲輪

土塁

櫓台と虎口

主郭と櫓台(奥)

主郭(千畳敷)

主郭(千畳敷)

主郭(千畳敷)

主郭(千畳敷)
北端

主郭(千畳敷)
北端

主郭西側土塁

搦手口

搦手側土塁

北腰曲輪

搦手からの
登城路

雑賀城遠望
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