帝國博物学協会
紀伊國
紀伊田辺城
 所在地 和歌山県田辺市上屋敷町
 交通機関 JR紀勢本線 紀伊田辺駅下車 徒歩15分
 別  名 錦水城・湊村城・湊城
 略  歴 慶長5(1600)年、関ヶ原合戦の功で浅野幸長が和歌山37万石の国主と、和歌山城に入城した。
家老浅野氏定は、入国当初上野山城に入城しましたが、慶長8(1603)年、会津川河口右岸に洲崎城を築いて入城した。
慶長10(1605)年、海岸沿いに近い洲崎城が、波浪によって被害を受けたため、州崎城の復興を取りやめ、翌慶長11(1606)年、対岸を選地して湊城が築かれた。
元和元(1615)年、一国一城令が発布されると、城は改築されて陣屋とされた。
元和5(1619)年、浅野氏が芸州広島城に加増・転封となり、代わって駿河駿府城から徳川家康の十男、頼宣が入国した。
湊城には、紀州徳川家の付家老として安藤直次が掛川城から頼宣に従って入城した。
幕府から附けられた付家老で38000石の禄高を与えられていた安藤氏は、湊城を拡張・整備し、田辺城を築城した。
以後、明治に至るまで、安藤氏が代々城主を務めた。
寛政3(1791)年、大島樫野浦に米国船が来航し、海防の必要性が叫ばれたため、11代城主安藤次猷は、田辺城の大規模な改修を実施した。
文久3(1863)年、16代安藤直裕は、田辺城が海岸線に近く、外国船から攻撃される恐れがあるため、下万呂城の築城工事に着手したが、沙汰止みとなった。
慶応4(1868)年、紀州田辺藩として、和歌山藩の支配を離れて独立したが、藩としての寿命は短く、3年後の明治4(1871)の廃藩置県で廃されると共に、田辺城も廃城となった。
 現  況 紀伊田辺城址は既に市街地化されており、本丸跡は宅地となっている。
唯一水門跡と、付近の石垣が明瞭に残されており、ここに城址案内板が立てられている。
城址の小公園から南東の駐車場沿いに、本丸の石垣が残っている。
錦水町全域が本丸跡で、南側の石垣・東側の石垣が、断片的に残されているが、なかなか遺構を探すのは大変である。
なお、郵便局前の下段付近が大手門跡になる。

水門跡

水門北側石垣

水門南側石垣

水門跡

内側から水門を
望む

錦水神社

田辺城の鯱瓦

田辺城案内板

小公園

小公園

本丸石垣

本丸南側石垣

本丸南側石垣

本丸南側石垣

本丸南側石垣

本丸跡の現状

本丸北側石垣

本丸北東角石垣

大手門跡
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