帝國博物学協会
紀伊國
和歌山城
 所在地 和歌山県和歌山市一番丁
 交通機関 JR紀勢本線 和歌山市駅下車
南海電鉄南海本線 和歌山市駅下車 和歌山バス公園前下車 徒歩5分
 別  名 虎伏城・竹垣城
 略  歴 天正13(1585)年、豊臣秀吉は、紀州根来寺などの勢力を滅ぼして、紀州を支配下に置いた。秀吉は、紀州を大和・和泉と共に弟の大納言秀長に与えた。
更に、自ら和歌山城の縄張りを行ったとも言われ、後に築城の名手といわれた藤堂高虎に命じて築城した。
秀長は城代として家臣の桑山重晴を30000石で入城させて、紀州を治めさせた。
慶長5(1600)年、関ヶ原合戦の功で桑山氏は大和新庄に転封となり、浅野幸長が和歌山376000石の国主として、甲斐甲府の躑躅ヶ崎館から和歌山城に入城した。
元和5(1619)年、浅野氏2代長晟が芸州広島城に加増・転封となり、代わって駿河駿府城から徳川家康の十男、頼宣が入国した。
頼宣は、徳川御三家紀伊徳川家555000石の威光を示しすために、城の拡張を実施した。この工事によって、和歌山城の威容は一新したため、却って徳川幕府から謀反の疑念を抱かれたほどであった。
紀州徳川家で最も有名な藩主は、5代藩主の吉宗(頼方)である。世に言う「暴れん坊将軍」こと8代将軍吉宗の事である。
吉宗は2代光貞の4男として生まれ、越前に20000石を与えられて分家を立藩していたが、3代綱教、4代頼職が急死した事によって、紀州藩主に就任する事Tなった。
紀州藩主となった吉宗は、倹約令を発して藩財政を立て直す事に成功した。この経験が、後に将軍となった時に生きており、幕府財政の再建にも成功した。
弘化3(1846)年、落雷によって天守を焼失した。時の藩主10代治宝は、幕府に天守の再建を願い出て認められると、現在見られる外観三層の天守を再建した。
紀州藩からは、もう一人将軍を輩出しており、13代慶福が14代将軍家茂となっている。
紀州徳川家は、親藩でありながら明治維新では官軍の一員として参戦している。
 現  況 現在、天守曲輪を中心にと二之丸・砂之丸・南之丸・西之丸などが和歌山城公園として整備されているが、主郭部で唯一本丸だけが水道局の管理下で入る事ができない。
戦前までは、天守を始め多くの建物が残っていたが、戦争で灰燼に帰し、現存の建物としては、岡口門・追廻門のみである。
戦後大天守を始めとする天守曲輪・大手門である一之橋御門・橋廊下が復元されている。
市内布施屋の光恩寺に、本丸御殿御台所が移築され、庫裏として使用されている。
郭外 砂之丸西側にあった扇之芝馬場の跡である。

馬場跡
砂之丸 砂之丸には乗馬調練場と勘定奉行役所が置かれていた。

西北隅櫓台石垣

西堀

西側高石垣

西側高石垣

西側高石垣

西側高石垣

西側高石垣出隅

西側高石垣

追廻門西の櫓台
石垣

追廻門

和歌山城跡石碑

追廻門内側

追廻門虎口

砂之丸
(砂の丸広場)

追廻門虎口石垣

砂之丸西側
高石垣

砂之丸西側
高石垣

櫓台石垣

西堀と石垣

多聞櫓跡

西北隅櫓櫓台

勘定門脇石垣

西北隅櫓櫓台

吹上門内内桝形
石垣

勘定門跡

砂の丸広場

鶴之門跡

鶴之門跡

鶴之渓

護国神社

西之丸

現在地(砂之丸)

光恩寺
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