帝國博物学協会
上野國
堀口氏館
 所在地 群馬県太田市堀口町
 交通機関 東武伊勢崎線 太田駅下車 太田市広域公共バスあおぞら 備前島入口下車 徒歩25分
 別  名 -
 略  歴 上野国志によれば「堀口村、大館宗氏の兄堀口次郎貞氏の居処、その孫美濃守貞満、南朝に仕えて数々の戦功あり」としており、堀口村内に堀口氏の居館があったと案内板には記されている。
元久2(1205)年、鎌倉幕府は新田義兼の堀口郷地頭職安堵しており、建保3(1215)年に新田尼からその孫岩松時兼に譲られた上堀口郷を除いて、代々を新田宗家に伝えられた。
貞氏は、この地に館を築いて移り住み、堀口氏の始祖となった。
元弘3(正慶2)年(1333)年、新田義貞が鎌倉幕府討伐のため挙兵すると、堀口貞満と弟である堀口行義でも参陣している。
堀口貞満は、鎌倉攻めにおいて子袋坂から兵を率いて攻撃し、軍功を挙げている。
貞満は南朝方として義貞と共に各地を転戦しており、太平記によると、建武3(1336)年5月、足利尊氏の軍勢が都に攻め入ったため、後醍醐天皇が比叡山に遷幸して対峙し、義貞は東麓の東坂本に本陣を置いた。
同年10月、都へ帰りたがった公卿らの懇請に、後醍醐天皇が足利尊氏と和睦を結んで比叡山を降りようとした際に、堀口貞満は後醍醐天皇に対し忠誠を尽くしてきた新田方を見捨てるかのようなの扱いを、人道に合わないことを詰って、帝をして翻意させている。
その後も南朝方として各地を転戦し、建武5/延元3(1338)年、美濃から越前に進軍中に没した。
 現  況 堀口氏館址には、昭和43(1968)年まで堀口貞満の創建とされる正覚寺の不動堂と墓地があったが、度重なる水難と堤防拡幅工事の為に浄蔵寺に合併され、遺構は失われた。
堤防沿いの駐車場脇に館跡の石碑と案内板だけが残されている。

堀口氏館址

堀口氏館跡碑と
案内板

案内板

館跡付近
Top