帝國博物学協会
上野國
金山城
 所在地 群馬県太田市金山町
 交通機関 東武伊勢崎線 太田駅下車 徒歩70分
 別  名 -
 略  歴 応仁3(1469)年、上杉方の岩松家純が古河公方方に対するために築城した。
その年、古河公方足利氏が伊豆堀越公方討伐のため伊豆に遠征している隙を衝いて上杉方の長尾景信らが佐野・足利を攻撃したため上杉方の五十子城攻撃を企てたが、金山城に籠った家純らによって70余日釘づけになり撤退した。
その後、金山の実権は岩松氏からその家宰の横瀬氏に移っていく。
再び金山城がその威力を発揮したのが、戦国後期に上野に進出した、北条氏・越後上杉氏の争いの頃である。
天文20(1551)年、北条氏は上杉憲政を越後へ追い、厩橋・沼田両城へ進出した。さらに、23年には古河公方足利晴氏が追われ、金山城の横瀬氏は北条支配下に取り残されたような形となった。そのため、やむなく北条方の擁立した古河公方に従う形で北条方に降った。
永禄3(1560)年、越後の上杉謙信が北関東に侵攻してくると、横瀬氏は上杉方として参陣、以降上杉氏に従った。横瀬氏は永禄6年頃、氏を由良と改めている。
永禄8(1565)年、由良氏は上杉氏から離れ北条方に転じた。そのため、上杉謙信の攻撃を受けることとなったが、金山城を落とすことはできなかった。
その後も度々謙信によって攻撃されているが、金山城は堅城振りを発揮した。
天正12(1584)年、城主由良国繁は北条氏の招きで小田原城に向かったが、その地で拘束され北条方は金山城に迫った。しかし、国繁の母妙印尼が将士を督励して見事防戦、北条側も攻略を諦めて国繁を解放した。
国繁は金山城を北条方に譲り、桐生城に退去した。
北条氏はこの城に清水正次を入れて城主としたが、小田原戦役ではこの城を放棄し、これによって金山城は廃城となった。
 現  況 城址は史跡として整備されており、西城下まで自動車道ができている。
実城には新田義貞を祭る新田神社が建てられており、三之丸には民家が建っているものの、全体的に非常に良好な状態で保存されている。
また、近年大手口などの石垣が復元されており、山城には珍しい水之手である日の池・月の池なども復元されている。
外郭部分

腰曲輪

土塁

竪堀
西城 金山城主郭の一部で西尾根に築かれた広い面積の郭である。西城には由良氏の一族泉伊予守が居城していた。

竪堀

空掘

空掘と土塁

筋違城門跡

土塁・石塁
と空掘

空掘と土塁

石塁

土塁(内側)

西城郭跡

筋違城門跡
と虎口
見附出丸 西城より筋違門を出て更に西南部に位置する。現在は熊笹に覆われた一角である。

見附出丸土塁

見附出丸

見附出丸土塁
西櫓郭 西城から二重空掘りを越えた所に所在する。西方に対する見張り櫓が建っていた。

二重空掘
(西側)

竪堀

二重空掘
(東側)

竪堀

二重空掘
(東側)

西櫓下石塁

西櫓跡
馬場下通路 西城より攻め上って来た敵を迎え撃つ第一関門となる。西側とは堀切にて仕切られ、頭上よりは馬場の物見櫓が狙っている。

石畳

小口石塁

馬場下石塁

堀切

石塁と竪堀

馬場下通路
石畳

木橋跡と石塁

建物跡
馬場下曲輪

馬場下曲輪
馬場 西端に物見台を備え、北面は長手口に備えて石塁を構えている。

馬場

物見台

全景と建物跡
馬場曲輪 馬場より若干低く東側を大堀切で実城部と区切っている。馬場曲輪には上下二段の石塁と弧状の根石列が残されている。

馬場曲輪全景

二段の石塁

大堀切

大堀切

実城
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