帝國博物学協会

上野
小泉城
 所在地 群馬県邑楽郡大泉町城之内2丁目
 交通機関 東武小泉線 小泉町駅下車 徒歩10分
 別  名 冨岡城
 略  歴 延徳元(1489)年、富岡主税介直光が築城築城したのが、小泉城の創築である。
直光は、結城合戦で敗れた結城氏朝の弟久朝の子で、敗戦の際にこの地へ逃れて、富岡氏を名乗った。
富岡氏は、直光以後三代に渡って古河公方に属していた。
永禄3(1560)年、越後の上杉景虎が関東管領上杉憲政を擁して関東に進出してきた。
城主富岡主税助秀信は、永禄5(1562)年頃に上杉氏の属して西上野に進出してきた武田軍に備えた。
永禄12(1569)年、秀親は忍城主成田氏と古戸で戦い討死してしまったため、重臣評議の上、同族の祇園城主小山高朝の弟重朝を養子として迎えた。
重朝は対馬守秀高と名を替えて、変わらず謙信に従い、天正元(1572)年には、北条氏の命で小泉城を攻めてきた深谷城主上杉憲盛の軍勢を、城にひきつけて撃退している。
しかし、間もなく秀高は北条方に替えて生き残りを図った。
翌天正2年、上杉謙信が赤岩在陣した際には、北条氏政の命に従って、小泉城を厳重に固めて籠城した。
天正8(1580)年には、西上野を制した武田勝頼が攻め来た際にも、籠城して城を守っている。
天正18(1590)年、豊臣秀吉が北条氏に対して征伐の軍を発すると、城主秀長は小田原城に籠城のために参じた。
留守部隊しか残らない小泉城には、北国軍の浅野長政・前田利家などの軍勢が殺到したため開城、その後廃城となった。
 現  況 城址主郭部は、城之内公園となって、土塁などの遺構が残されている。
残っている主郭と三之丸の土塁下部が、無粋に護岸工事されていることが残念である。
総構えについても、北西側の部分の遺構は良好に残されている。また、総構え全体のラインについても、堀跡の上に道路が通されているため、辿る事が可能である。
総構え 総構えは、小泉町駅北西から西側にかけて、堀の遺構が良く残されている。
特に北丁より西側に至るラインはよく残されており、虎口の遺構も残されている。
南西側から南端に至る位置は、休泊川に即したラインで、堀が埋め立てられて道路となっている。

梅梢寺裏土塁

梅梢寺裏土塁

梅梢寺南東側
堀跡の道路

梅梢寺南東側
堀跡の公園

総構え南東側
堀跡の道路

総構え南東側
堀跡の道路

総構え南東側
堀跡の道路

総構え南東側
堀跡の道路

総構え南東側
堀跡の道路

総構え南東側
堀跡の道路

総構え南東側
堀跡の道路

総構え南側
堀跡の道路

橋連松跡

橋連松跡

総構え南側
堀跡の道路

南門跡

休泊川岸の土塁
と庚申塔

休泊川岸の土塁

休泊川岸の土塁

休泊川岸の土塁

休泊川(外掘)

休泊川(外掘)

休泊川(外掘)

休泊川(外掘)

休泊川(外掘)

休泊川(外掘)

西南側休泊川
(外掘)と土塁

総構え西北側

総構え西北側
切岸

総構え西北側
切岸

北出口桝形
切岸

北出口桝形
切岸

北出口桝形
切岸

地の池跡

北西側堀と土塁

北西側堀と土塁

北西側堀と土塁

北西側堀と土塁

北西側堀と土塁

北西側堀と土塁

北東側堀と土塁

北東側堀と土塁

北東側堀跡

北東側堀跡

北東側堀跡

北東側堀跡

北東側堀跡の
道路

北東側堀跡の
道路

北東側堀跡の
道路

北東側堀跡の
道路

北東側堀跡の
道路

中心部
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