帝國博物学協会
上野國
前橋城
 所在地 群馬県前橋市大手町
 交通機関 JR両毛線前橋駅下車 バス県庁前下車 徒歩5分
 別  名 厩橋城
 略  歴 前橋城は古くは厩橋城といって長尾賢忠によって築かれた城である。
永禄2(1559)年、北関東に進出した長尾景虎の拠点となり、北条高広が城将として入城した。
北条氏は謙信の死後、関東進出を図る武田勝頼に降り武田方となったが、武田氏が滅亡すると、織田信長の勢力が厩橋に進駐し、滝川一益が入城した。
しかし、信長死すの一報がもたらされると、上州の勢力はなだれを打って小田原北条氏に味方し、一益はほうほうの体で退却、厩橋城は小田原北条氏の支配下に入った。
北条氏が滅亡し、関東が徳川家康の領国となると、厩橋には甲斐甲府城から平岩親吉が入城した。
関ヶ原の戦いの後、親吉は再び甲斐甲府城6万3千石に封じられ、厩橋には武蔵川越城から酒井重忠が3万3千石で入封した。 酒井氏は9代150年間厩橋城に在城した。
厩橋を正式に前橋としたのは、5代藩主酒井忠挙である。
酒井氏忠恭の時、寛延2(1749)年、播磨姫路城に転封になり、入替わりで松平朝矩が入封した。しかし、前橋城は利根川の氾濫で崩壊の危機に瀕しており、松平氏によって度々修理を必要とした。
その負担に耐えかねた松平氏は川越城に転封になり、前橋は陣屋支配地となり、前橋城は藩主不在の城となった。
慶応3(1863)年、前橋城には松平氏が再入城し、洋式築城法で再建されたが、明治維新で廃城となった。
 現  況 現在本丸北側の土塁と車橋門石垣、外郭の空掘跡の三ヶ所しか遺構は残されていない。
本丸北側の土塁には、櫓台などの土塁もよこ残されており、一見の価値は在る。
外郭の空掘は児童公園になっているため、遺構としてあまり良好に残されてはいなかいが、瓢箪池側の空掘はかろうじて空掘の面影を見ることができる。

車橋門跡

車橋門跡

車橋門跡

本丸土塁

前橋城址碑

本丸砲台土塁

本丸土塁

本丸土塁

本丸土塁

本丸土塁

土手曲輪土塁

土手曲輪土塁

空掘跡
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