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| 所在地 | 群馬県高崎市箕郷町西明屋字城山 |
| 交通機関 | JR 東北城越新幹線 高崎駅下車 群馬バス 城山入口下車 徒歩15分 | 別 名 | - |
| 略 歴 |
箕輪城は、在原業平の子孫で上州長野郷に土着した長野氏の宗家、長野業尚によって明応年間または永正9(1512)年築かれたとされている。 また、大永6(1526)年、業尚の子憲業によって築かれたという説もある。 箕輪城が歴史上に登場するのは、天文21(1552)年に本城平井城を捨てて、越後の長尾景虎を頼って春日山城に落ちていった後であった。 憲業の子で箕輪城主であった長野業政が、上杉氏の上野における勢力の中心的存在となり、北条氏の攻撃を一手に引き受ける事となった。 天文23(1554)年、相甲駿の三国同盟が成立すると、北条氏の勢力を補完する意味でも武田信玄が信濃から西上野に進出を繰り返した。 業政は戦術を駆使して武田信玄の猛攻を支え、何度も信玄を撃退した。 永禄4(1561)年、名将業政も老齢には勝てずに没した。業政は「我が葬儀は不要である。菩提寺の長年寺に埋め捨てよ。弔いには墓前に敵兵の首をひとつでも多く並べよ。決して降伏するべからず。力尽きなば、城を枕に討ち死にせよ。これこそ孝徳と心得るべし」と遺言したと伝わっている。 同年、越後の上杉謙信が越山して関東に進出し、関東に残る上杉方諸将を糾合して北条氏の本拠、小田原城を攻撃したが、長野氏からは業政の嫡子業盛が参加している。 永禄6(1563)年、武田信玄は和田城の和田業繁を調略して寝返らせると、倉賀野城を攻城している。この時は武田軍は倉賀野城を攻め取る事はできなかった。 永禄7(1564)年、武田軍はまたも西上野に進出、松井田城、安中城が遂に落城した。 永禄8(1565)年、倉賀野城も陥落、西上野においての上杉方の拠点は箕輪城を中心とする長野氏の城砦のみとなってしまった。 永禄9(1566)年、信玄は自ら二万の軍勢を率いて西上野に侵攻、長野氏の城砦群の攻略を開始した。 緒戦で高浜砦を攻略されたが、箕輪城からの援軍が再度高浜砦を奪回し気勢を上げた。 その一方で武田方の小宮山昌友が、箕輪城と鷹留城にある里見城と雉郷城を攻略し、箕輪城と鷹留城の連絡を分断した。 鷹留城の城将は業盛の従兄弟の長野業通であった。業通は数百の手勢で鷹留城に籠城したが、衆寡敵せず鷹留城は落城、業通の弟業勝は討死し、業通は吾妻に落ちていった。 同年9月、長野業盛は城を打って出て若田ヶ原で武田軍を迎撃したが、戦力に勝る武田軍の攻撃に善戦虚しく敗退し、箕輪城に籠城した。 武田軍は箕輪城の東南側に本陣を置き、同月29日より箕輪城の攻略に取り掛かった。 迎え撃つ長野勢1500は、城主業盛を中心に北面守備に藤井豊後守、下田大膳、田口業祐、金剛家綱、大手守備に大久保成家、高橋一乗、梶山吉方を配して武田勢の攻撃を迎え撃った。 武田方は2万の軍勢を二手に分け、大手を飯富虎昌、山県昌景、馬場信房、小宮山昌友、搦手を武田勝頼、原加賀守、内藤昌豊、原昌胤、浅利義胤が担当し、遊軍には小幡信定を配置した。 (※当時の大手は現在の搦手・搦手は現在の大手にあたる。) 武田軍は新曲輪方面から攻略を開始、一時は業盛率いる軍勢が城門から討って出て戦うなど長野勢も善戦した。 しかし、武田勢の総攻撃が始まると、椿山の砦が武田勝頼軍によって攻略されると、寡勢の長野軍はじりじりと後退し、遂に業盛は御前曲輪の持仏道堂で自刃して箕輪城は落城した。 信玄は内藤修理亮昌豊を城主として箕輪城に入れると、武田軍の西上野支配の拠点としたが、信玄の死後、天正3(1575)年の長篠の戦いに出陣して戦死した。 箕輪城は昌豊の長男昌月が後を継いだが、天正10(1582)年に武田氏が滅亡すると、北条氏に降り北条氏邦が箕輪城を預かった。 しかし、武田氏を滅ぼした織田氏の軍勢はその余勢をかって西上野に侵攻し、関東管領に任じられた滝川一益が北条勢を撃破して箕輪城に入城し、西上野支配の拠点とした。 一益は更に上野の攻略を進め、厩橋城を攻略すると、本城を厩橋城に移した。 同年6月、本能寺の変が発生して主君で織田信長が横死すると、その報に接した北条軍が攻勢を強めた。一益は神流川合戦で北条氏の進出を食い止めようとするが、合戦に敗れて上野を放棄して居城のある伊勢に引揚げていった。 こうして無人となった箕輪城去ると、再び北条氏邦の配下に組み込まれた。 天正18(1590)年の小田原の陣では垪和氏・保科氏が守備していたが、前田利家・上杉景勝らの北国軍に戦わずして開城している。 戦後、関東に移封となった徳川家康は井伊直政を12万石という徳川家中最大の俸禄で箕輪城に入れ、北関東の備えとした。 直政は箕輪城の要所を石垣で固めるとともに、大手を従来の搦手側に変更し、近世的な城郭として改修した。 その一方で、和田城を拡張整備して高崎城を築城した。 慶長3(1598)年、新装成った高崎城に本拠を移すと、箕輪城は廃城となった。 |
| 現 況 |
現在、国指定史跡に指定されており、主要部の遺構はほぼ完全に残されている。 玉木山には北側の丸馬出しのところから登れるが、基本的には完全に藪こぎになることを覚悟しなければならない。 通仲曲輪には御前曲輪北掘から登ることができるが、基本的には曲輪内はやはり藪が密生している。往時は御前曲輪から木橋が掛けられていたと考えられる。 同様に本丸と蔵屋敷の間にも木橋が掛けられていたと考えられる。 二之丸・三之丸をはじめ、南方の曲輪群もよく残っており、三之丸から鍛冶曲輪の間には、石垣が良好な状態で残されている。 大手虎韜門は、石垣がよく残されている。 |
| 大手口 | 井伊期の大手口で、門の前には「丸戸張」が設けられていた。大手口には間口4間の櫓門が建てられていた。この門は後に高崎城に移築され、槻木門となった。 |
![]() 大手口 |
![]() 大手口 |
| 道具屋敷 | 城の武具など戦いの道具を置いたところ。 |
![]() 道具屋敷案内板 |
![]() 道具屋敷 |
| 水之手曲輪 | 城の大切な飲料水を湧き出していた曲輪。周囲の地形が「箕」のような地形をしていたことから、箕輪の地名が発生したと言われている。 |
![]() 法峰寺参道 |
![]() 水之手曲輪 案内板 |
![]() 湿地帯 |
![]() 水之手曲輪 |
![]() 水之手曲輪標柱 |
![]() 法峰寺本堂 |
![]() 法峰境内 |
![]() 白川口・大手口・鍛冶曲輪 |
![]() 大手尾根筋曲輪群 |
![]() 榛名口尾根筋曲輪群 |
![]() 丸戸張 |
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