帝國博物学協会
上野國
館林城
 所在地 群馬県館林市城町
 交通機関 東武伊勢崎線館林駅下車 徒歩30分
 別  名 尾曳城
 略  歴 歴史上初めて館林城が登場するのは、文明3年(1471)、足利成氏が足利政友を攻撃した際、舞木氏被官の赤井氏の居城、立林城を攻撃したとある。
永禄5年(1562)、上野国に侵入した上杉軍により、館林城は攻略され、赤井氏は武蔵まで落ち延び、城は足利城主長尾景長の支配下となる。
その後、上杉謙信・武田信玄なども含めて3者の争奪戦に晒されることとなったが、永禄12年(1569)、上杉氏と北条氏の和睦により、上野は上杉氏に属することとなる。
この年、長尾景長が没し、金山城主由良成繁の子が養子となり足利顕長を名乗り長尾氏を継いだ。
上杉謙信が没すると、武蔵まで支配下に置いていた北条氏の勢力が上野・下野に及んでくると、これを牽制するため、武田勝頼が金山城・館林城を攻撃した。
武田氏の滅亡後、再び北条氏が侵攻、天正13年には金山城・館林城は北条氏支配化に置かれた。
豊臣秀吉の小田原の陣後、関東に入封した徳川家康は、館林城に四天王の一人、榊原康政を封じた。
榊原氏は3代に渡って館林を治め、寛永20(1643)年、3代忠次の時に陸奥白河城に転封となった。
替わって遠江浜松城から松平(大給)乗寿が6万石で入封した。
寛文元(1661)年、2代乗久が下総佐倉城になると、4代将軍徳川家綱の弟綱吉が25万石で入城した。
延宝8(1680)年、綱吉は将軍後継者として江戸城二之丸に入ったため、館林城は嫡男の徳松が藩主となった。
天和3(1683)年、徳松が夭逝すると、館林は天領とされ、館林城は破却された。
宝永4(1707)年、6代将軍家宣の弟清武が、松平(越智)氏を名乗って封じられると、旧城址の再築に着手した。
松平(越智)氏3代武元は、家督を継いだその日に陸奥棚倉城へ転封になり、入替わりで太田資晴が入封、2代に渡って館林を治めた。
延享3(1746)年、太田資俊は遠江掛川城に転封となり、松平(越智)武元が再入封して復帰した。
天保7(1836)年、松平氏5代斉厚は、石見浜田城に転封となり、陸奥棚倉城から井上正春が6万石で入城した。
井上氏の治世は短く、弘化2(1845)年には遠江浜松城と転封となった。
替わって出羽山形城から秋元志朝が6万石で入封、秋元氏のもとで明治維新を向かえた。
 現  況 現在、市指定史跡に指定された城址は、ほとんどが公共用地となり本丸・三之丸・八幡曲輪・稲荷曲輪の一部に土塁が残されているのみである。

三之丸土橋門

三之丸土塁
と土塀

三之丸土橋門
虎口

三之丸

舘林城址碑

本丸間知石

八幡曲輪土塁

八幡曲輪土塁

本丸土塁

本丸土塁

本丸水路

稲荷曲輪址

稲荷曲輪土塁

三之丸
千貫門址

外郭門址に
建つ城址碑
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