帝國博物学協会
備中國
高松城
 所在地 岡山県岡山市高松
 交通機関 JR吉備線 備中高松駅下車 徒歩15分
 別  名 沼城・備中高松城
 略  歴 備中松山城主・三村氏支城として石川久式が築いたと言われているが、築城時期についてはよくわかっていない。
天正3(1575)年、備前の宇喜多直家が毛利氏と和睦、毛利氏は三村元親に宇喜多氏との和睦を命じてきたが、元親はこれを受け入れず、逆に中国に食指を伸ばし始めた織田氏に内応したため、元親は毛利氏に攻撃され滅亡、石川氏も運命を共にした。
石川氏の滅亡後、この城に入城したのは、久式のの娘婿であった清水宗治であった。
天正10(1582)年、織田信長の中国侵攻の尖兵として、羽柴秀吉が備中に押し寄せ、4月には高松城を包囲した。
高松城は周囲を沼に囲まれた沼城であったため、秀吉の大軍であっても攻城は容易ではなかった。
5月8日、黒田官兵衛の献策で、堰堤で包囲して足守川の水を引き入れ、高松城を水没させるという作戦で、後に「高松城水攻め」と呼ばれる作戦が実行された。
築堤は突貫工事で19日には堤防が完成し、梅雨時であったため、高松城は水没した。
宗治は約半月の間、水に囲まれた城で籠城した。毛利輝元も後詰として兵を出したが、手を出す事ができず、遂に6月4日に城主宗治の切腹と引き換えに講和し、開城した、。
しかし、これに先立つ6月2日、京の本能寺において、秀吉の主君信長は明智光秀の謀叛で命を落としており、その密使を秀吉配下の警戒線が捕らえていた。秀吉は、この事を毛利側に知られる事がない様に厳重な警戒を行い、和睦後明智光秀を討つべく京に引揚げていった。
これが世に言う中国大返しである。
清水氏に換って、高松城には宇喜多直家の家老、花房正成が入城した。
宇喜多氏は秀家の時代に秀家の室、豪姫に加賀から従ってきた者と、旧来の宇喜多氏の家臣の間で争いがあり、花房氏は宇喜多家を離れた。花房氏は関ヶ原合戦で東軍に属し、旧主宇喜多秀家が西軍として参戦したため改易されたのに対して、徳川家旗本として取り立てられた。
戦後は旗本花房職之が居城したが、備中阿部に移り、高松城は廃城となった。
 現  況 城址は高松城址公園となっており、本丸・二之丸が残されている。
本丸には宗治の首塚が移されており、二之丸には資料館が建てられている。
周囲が沼であったことは、今はする由も無いが、資料館に掲げられた1985年の洪水の写真が、往時の水攻めを想像させるに十分である。
周囲には、宗治自刃の地や、船橋、ごうやぶなどの史跡があり、蛙ヶ鼻には秀吉が築いた築堤の残滓が残されている。

本丸北側水濠
と土塁

本丸北側水濠
と土塁

池の下丸付近

池の下丸付近

本丸西側水濠
と土塁

池の下丸から
本丸を望む

本丸跡

本丸跡

清水宗治城址碑

天徳記念碑

本丸跡

宗治首塚

本丸・二之丸
間の橋

史蹟備中高松
城址碑

本丸南側水濠

本丸南側入口

本丸南側水濠
と土塁

本丸西側水濠
と土塁

本丸遠望

二之丸と水濠

二之丸

高松城址案内板

三之丸跡

宗治自刃の地

ごうやぶ

三之丸門付近

船橋
史蹟 水攻築堤跡

堤上の碑

蛙ヶ鼻築堤

蛙ヶ鼻築堤

発掘跡

検出逆茂木
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