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| 所在地 | 岐阜県岐阜市加納丸之内 |
| 交通機関 | 名鉄本線 茶所駅下車 徒歩15分 |
| 別 名 | 沓井城・叶城 |
| 略 歴 |
2008/10/26全面改訂 加納城の創建は文安2(1445)年、美濃守護代の斎藤利永が築城したといわれている。 南には、美濃守護所の川手城がある。 明応4(1495)年の船田合戦では、船田城主石丸利光の軍勢に包囲されている。 その後、斎藤氏は一旦絶えることとなったため、天文の頃には廃城となっていたと思われる。 関ヶ原合戦の後、岐阜城主織田秀信は西軍に与したため改易となった。 慶長6(1601)年、天下を握った徳川家康は、中仙道の要衝である西美濃に養女亀姫の娘婿、奥平信昌を100,000石で封じた。 家康は岐阜城を廃城とし、その廃材などを使用して沓井城の旧蹟に加納城を築かせた。 奥平氏は3代に渡って加納を統治したが、寛永9(1632)年、奥平氏は無嗣断絶した。 替わって武蔵騎西城より奥平信昌の娘婿である大久保忠職が50,000石で入城した。 寛永16(1639)年、忠職は播磨明石城へ移封となり、入替りで松平(戸田)光重が入封した。 松平氏3代光煕は、正徳元(1711)年、山城淀城へ移封され、替わって備中松山城より安藤信友が65,000石で入城した。 安藤氏は2代信尹の時、藩主不行跡から宝暦騒動が発生、宝暦5(1755)年に幕府より強制隠居を命じられ50,000石に減封、3代信成が藩主に就いた。 翌宝暦6年、安藤信成は懲罰的な意味から磐木平城へ転封となり、武蔵岩槻城から永井直陳が入封した。 永井氏は6代に渡って加納藩を治め、6代永井尚服の時に明治維新を迎えた。 |
| 現 況 |
城址は加納公園となっている。現在発掘などが行われているが、公園内は芝生などがはられて整備されているが、石垣付近にはいまだに有刺鉄線が張られているなど、岐阜城に比べて整備状況が良好とは言い難い。 本丸の石垣は慶長期の野面積み石垣が、都心の平城跡としてはよく残っている。 二之丸は三階櫓付近の石垣が加納小学校校庭側に残されている。 その他の曲輪遺構は都市化の波に飲み込まれて消滅してしまったが、町名にその名残を見ることができる。 |
| 大手門跡 |
![]() 大手門跡 |
![]() 大手門跡碑 |
| 二之丸 |
![]() 二之丸三階櫓 石垣 |
![]() 二之丸北面 石垣 |
![]() 本 丸 |
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