帝國博物学協会
美濃國
黒野城
 所在地 岐阜県岐阜市黒野
 交通機関 名鉄本線 新岐阜駅下車 岐阜バス 平野総合病院前下車 徒歩10分
 別  名 -
 略  歴 2008年11月1日全面改訂
城主は加藤貞泰である。
加藤貞泰の父加藤光泰は、はじめは斎藤道三に仕えていたが、斎藤龍興が織田信長に稲葉山城を追われた後、織田氏・豊臣氏に仕え、甲斐谷村城24万石を領した。
光泰は文禄の役で陣中で没した。嗣子貞泰は幼かったため領地を減ぜられ、40000石で黒野城に入った(光泰が石田三成と折り合いが悪かったため、三成の讒言で減封となったともいわれている。)
貞泰は黒野城を築城するとともに、城下を整備した。
慶長5(1600)年の関ヶ原合戦では、東軍に属して戦功を挙げ、本領を安堵された。
慶長15(1610)年、加藤氏は伯耆米子城20000石へ転封となり、黒野城は廃城となった。
 現  況 城址は黒野城址公園として本丸跡の土塁・水濠がよく残されている。
北西側の土塁には付櫓があったと想定される張り出しがあり、天守のような高層建物があったように思われる。
北東角・南東角には櫓が建てられていたと考えられる櫓台土塁が残されている。
虎口は西南に開かれており礎石が残されている。
城址北の多賀神社裏手には外掘の遺構が残されている。
2008年11月1日追加
外掘

多賀神社

外掘(神社西)

外掘底

外掘底

外掘底

外掘底

外掘底

外掘底

外掘(神社東側)
本丸
1988年11月頃撮影

黒野城址碑

本丸西側土塁

本丸西側土塁
と水濠

本丸東側土塁

本丸東側土塁

本丸南側土塁
と水濠
2008年11月1日追加

東水濠と土塁

東水濠と土塁

南東櫓台土塁と東水濠

南東櫓台土塁と水濠

南水濠と土塁

南水濠と土塁

外桝形

黒田城跡標柱

本丸南側土塁
と水濠

虎口土橋

西側出隅

西側出隅

西北水濠と土塁

西側出隅土塁と
水濠

西北櫓台土塁

北西櫓台土塁

北西櫓台土塁
と北水濠

黒野城址碑と
案内板

大手桝形と土橋

桝形土塁

本丸西側

本丸

西側出隅土塁

本丸西側土塁

西北櫓(天守?)跡

北側土塁

東北櫓台

東北櫓台と
東土塁

東土塁

東土塁と
東南櫓台

東南櫓台

黒野城本丸

南側土塁

南側土塁
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