帝國博物学協会
美濃國
松尾山城
 所在地 岐阜県不破郡関ヶ原町松尾
 交通機関 JR東海道本線 関ヶ原駅下車 徒歩60分
 別  名 小早川秀秋陣・長亭軒
 略  歴 美濃の小守護代富島氏は、松尾山南麓の聖蓮寺のある場所に居館を構えていたが、詰め城として応永年(1394-1428)間に館の背後の松尾山に城を築いた。 永禄12(1569)年、美濃侵攻を果たした信長が松尾山城を支配下に置いたともいわれる。
元亀元(1570)年、近江小谷城主の浅井長政は、越前の朝倉氏を討伐すべく侵攻中の織田信長に反旗を翻した。この時、家臣の樋口直房に、近江と美濃の交通を抑える要衝として、松尾山城の占拠と修築を命じた。
しかし、無事に撤退した信長が浅井氏を攻撃するため、近江に侵攻する際にには、松尾山城の直房は開城・降伏している。
天正元(1573)年、信長は浅井長政を小谷城に滅ぼすと、江濃国境警備として不破光治を松尾山城に入城させた。
天正4(1577)年、信長が居城を近江安土城へ移し、織田家の家督と岐阜城を嫡男信忠に譲ると、松尾山城の存在意義は薄れ、天正7年に廃城となった。
再び松尾山城に脚光が当たるのは、慶長5(1600)年の関ヶ原合戦に際して、西軍の小早川秀秋の陣が松尾山城址敷かれた事による。
秀秋は、開戦前から徳川家康率いる東軍に寝返りを約していたが、正午に至るまで、関ヶ原で繰り広げられる戦闘を傍観するのみであった。
正午を過ぎた頃、痺れを切らした家康が、松尾山の小早川陣に向かって鉄砲を放ったため、驚いた秀秋は北麓に陣取って善戦していた大谷吉継の陣へと攻め降り、これを撃破し東軍を勝利に導いた。
 現  況 城址は松尾山山頂に存在しているが、現在は往時の登城ルートではなく、廃城後に新たに作られた道から登ることになる。
東海自然歩道に指定されているこの道は、それほど急な道路ではないため、ハイキングに手頃な城址である。
遊歩道を入ってすぐの尾根上に平場がある。特にどの資料にも記述はないが、平場が二段になっている事や、東側の道が堀底道の様になっていることから、往時は砦が置かれてたようにも思われるため、便宜的に東砦とした。
山頂の一曲輪・南曲輪・東曲輪など、多くの曲輪に良好に土塁が残されており、竪掘や虎口のなど多くの遺構が残されている。
なお、一曲輪には「小早川秀秋陣址」の標柱・案内板と松尾山城の案内板の両方が立てられている。
東砦

登城口

東砦切岸

東砦坂虎口

東砦の祠

東砦主郭

東砦二曲輪
東砦⇒北曲輪

東砦と松尾山間
の谷地

遊歩道

堀切

尾根道
北曲輪

北曲輪東切岸

北曲輪

北曲輪

北曲輪
北東曲輪

北東曲輪北切岸

北東曲輪北側

北東曲輪

北東曲輪先端
土塁

北東曲輪東側
土塁

北東曲輪北側
土塁

北東曲輪東側
土塁折
東曲輪

東曲輪
南二曲輪

南二曲輪南虎口

南二曲輪南虎口
脇土塁

南二曲輪西側
切岸

南二曲輪東側
土塁

南二曲輪東側
土塁

南二曲輪北側
と主郭南虎口
主郭

主郭南土橋

主郭南虎口

主郭南土塁

主郭南虎口

主郭南虎口

主郭北下

主郭北切岸

主郭北階段

主郭東側折

松尾山城案内板

北東側土塁

北側土塁

北側土塁

西側土塁

北東角土塁

主郭

小早川秀秋陣
標柱と案内板

主郭より古戦場
を望む
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