帝國博物学協会
美濃國
大垣城
 所在地 岐阜県大垣市郭町1
 交通機関 東海道本線 大垣駅下車 徒歩10分
 別  名 巨鹿城
 略  歴 大垣城の創建には諸説があり、明応9(1500)年に竹腰尚綱によって築かれたという説と、天文4(1535)年、土岐氏の一族宮川安定が、豪族大垣氏の砦を奪い城を築いたとするというものである。
天文13(1545)年、尾張の織田信秀が美濃に侵入、大垣城は織田氏のものとなり、織田信辰が城主として入城した。しかし、5年後の天文18年、美濃斎藤道三により落城し、斉藤氏家臣の竹腰尚光が入城した。
永禄2(1559)年、西美濃三人衆の一人、氏家ト全が入城した。この頃、大垣城は拡張されたようである。
元亀2(1571)年、氏家ト全が伊勢長島の一向一揆攻めで戦死すると嫡男の直通が継いだが、天正11(1583)年に死去、後を弟の氏家行広が継いだ。
天正11(1583)年、羽柴秀吉により行広は伊勢桑名城に移され、替わって池田恒興が大垣城に入ったが、小牧長久手の戦いで戦死、子の輝政が大垣城主となった。
秀吉は、大垣城を「大事の要の城」と呼び、その後一族の三好秀次・木下秀長が城主を務めた。
天正13(1585)年、秀吉子飼の加藤光泰が大垣城主2万石となったが不正が発覚したため更迭され、一柳直末が3万石で入封した。
天正17(1589)年、直末は軽海西城6万石に転封となり、一時的に羽柴秀勝が入城したが、天正18(1590)年の小田原の陣で功を挙げた伊藤祐盛が入城した。
文禄4(1595)年、祐盛が天守を築いたといわれるが、同年、秀次事件に連座して処罰された。
慶長5(1600)年、祐盛の死後家督を継いだ二代の盛宗の時関ケ原の戦いが起こり、伊藤氏は西軍に属した。
大垣城には石田三成の女婿、福原長堯が籠城したが、東軍の水野勝成の猛攻で落城した。
戦後、関ヶ原合戦の戦功で上総成戸から石川康通が5万石で入城した。石川氏は3代忠総の時、元和2(1616)年、6万石で豊後日田へ転封となった。
替わって松平(久松)忠良が5万石で下総関宿城から入城した。
正保4(1647)年、2代憲良が嗣子無く死去したため改易となった。
大垣の地には丹波福知山城から岡部長盛が入城した。寛永10(1633)年岡部氏2代宣勝は播磨龍野城に転封となった。
替わって山城淀城から松平定綱が入城したが、2年後には伊勢桑名城に加増・転封となった。
寛永11(1634)年、摂津国尼崎城から戸田氏鉄が10万石で入封、以後11代続き明治維新を迎えた。
 現  況 城址は大垣公園の一部として、天守をはじめ本丸の建造物群が復元されている。
城の周囲を廻っていた水濠の多くは埋め立てられているが、一部が水都としての大垣の面影を残している。

大小姓多聞
(表門)

艮櫓

水手門跡
と水手櫓

水手門跡
と天守

天守及び付櫓

天守

巽櫓と天守

本丸西門
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