帝國博物学協会
美濃國
鷺山城
 所在地 岐阜県岐阜市鷺山
 交通機関 JR東海道線 岐阜駅下車 岐阜バス鷺山小学校前下車 徒歩5分
 別  名 -
 略  歴 美濃明細記には、文治(1185-90)年間、美濃国山田郷に地頭職を与えられていた佐竹常陸介秀義が築城したと記されている。 秀義は新羅三郎義光四代の孫、佐竹常陸介隆義の子であるが、その後の鷺山城の動静は不明である。
室町期に入ると、守護土岐氏の持城となったが、文和2(1353)年、守護所として川手城が築かれると、鷺山城はその支城となっていった。
再び鷺山城が史上に現れるのは、永正(1504-20)年間で、美濃守護の弟、土岐頼芸が鷺山城を再興して居城とした。
頼芸は、家臣斎藤道三の手腕で、天文12(1543)年、守護である甥の頼純を越前に追い、第11代守護として川手城に入るまで居城していた。
再度鷺山城が脚光を浴びるのは天文17(1548)年のことである。
美濃の戦国大名として勢力を築いた斎藤道三は、家督を嫡男の義龍に譲ると、鷺山城を隠居城として改修し、稲葉山城から居城を移した。
弘治元(1555)年、義龍は日根野弘就、武井助直ら家臣から、国を追われた守護土岐頼芸の子であること告げられ、また自身が廃嫡されるのではないかと疑い、父道三に叛旗を翻した。
義龍はまず異腹の弟孫四郎、喜平次を稲葉山城に呼び出して殺害した。
これに驚いた道三は、防御に不向きな鷺山城を捨てて北野城に逃れたが、翌弘治2年、長良川の戦いで奮闘虚しく討死した。
道三の死後、鷺山城は廃城となった。
 現  況 城址は岐阜城北西方向、標高68mの鷺山山頂にある。
城は山頂部の曲輪と山麓部の居館にわかれる。
山頂には主郭と思われる城址碑の立つやや広い部分と、太子殿の建つ北側の曲輪、展望台が建つ南側の曲輪の構成であったと思われる。
主郭と北側の曲輪は深い堀切となっており、往時はここに木橋が掛けられていたと考えられる。
山自体がそれ程峻険ではないため、防御性は低かったと思われる。
山麓の居館は、斎藤道三が隠居所としていたところと考えられるが、居館が稲葉山方向に築かれている事から考えて、まさか嫡男に叛乱を起されるなどとは、微塵も考えていなかったのではないかという印象を受けた。
なお、居館跡には土塁らしきものが残されている。
居館 土岐頼芸または斎藤道三が居館したと伝わっている。
現在はNTTの社宅となっており、土塁が僅かに残されている。

居館土塁

居館土塁

居館跡
山麓曲輪群 最上段が城主の居館であったと思われる。
その下に数段の平場があり、ここには家臣の屋敷が立てられていたと思われる。

城主居館跡?

城主居館跡?

鷺山城址

城主居館跡?

家臣屋敷か?

家臣屋敷か?

家臣屋敷か?

北野神社
南曲輪 主郭南方、大手筋に置かれた曲輪で、屋敷址の直上に位置している。

尾根筋

南曲輪南端

鷺山城址案内板

大手道

大手道から
南曲輪を望む
主郭 所謂本丸と言われる曲輪である。
山上の曲輪の中では一番広い曲輪であるが、御殿などの建築物が建てられるほどは広くはない。

北曲輪から主郭
を望む

北側登り口

主郭北端

主郭

鷺山城址碑

南方から主郭
を望む
北曲輪 主郭とは大堀切で仕切られた曲輪である。
往時は主郭とは木橋などで結ばれていたと考えられ、詰丸のような位置付けであったと思われる。

堀切底

北曲輪切岸

北曲輪東切岸

北曲輪

北曲輪

北曲輪

北曲輪から堀切
を望む

主郭から北曲輪
を望む
搦手 北曲輪北側から尾根上を抜ける道がある。これが搦手と考えられる。

搦手の案内板

搦手道

中段の平場

中段の平場から
の登城路

搦手道
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