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| 所在地 | 埼玉県さいたま市岩槻区平林寺 |
| 交通機関 | 東武野田線 岩槻駅下車 国際興業バス 前原下下車 徒歩10分 | 別 名 | 平林寺遺跡・平林寺土塁 |
| 略 歴 |
南北朝期の永和元(1375)年、鎌倉建長寺の住持であった石室善玖禅師が、岩付城主太田備中守春桂蘊澤大居士の帰依によって、開山されたとされるが、そのそも南北朝期に岩付城がある筈も無く、その来歴は不明である。 太田氏は代々扇谷上杉氏に仕えており、資清(道真)、資長(道灌)が備中守を称していることから、代々備中守を称したとも考えられる。 逆説的な考えであるが、永和元(1375)年の当主は、資清の祖父の資兼か父の資房であったと考えられる。 一方別本太田系図には、この間に資益・資通の名も見える。どうやら、この辺りが平林寺を創建したと考えられよう。 その後、平林寺は太田氏の庇護のもと勢力を誇り、岩付城の出城的な役割を果たしたと思われる。 天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐で、秀吉方の浅野長政軍の攻撃を受け、堂塔伽藍は灰燼に帰した。 天正20年、駿河臨済寺から鉄山宗純を招いて再興されたが、寛文3(1663)年、川越城主松平(大河内)輝綱が、父信綱の遺命で菩提寺として、野火止に堂塔伽藍のすべてを移建した。 |
| 現 況 |
平林寺跡は、田畑や住宅地となっており、遺構は残されていない。 寺の中心と思わしき場所に、金鳳山平林寺址の石碑が立っている。 県道からこの石碑までの間に、道路が不自然にクランク状になっているところがあり、嘗ては虎口があったのかもしれない。 平林寺遺跡土塁 河合小学校西側から国道122号線・東北自動車道を横切って、クリニカル病院の南側にかけて、土塁・空堀が設けられていたと考えられており、これが平林寺の外郭防御線と考えられる。 河合小学校西側の土塁は、僅かに残るだけであるが、クリニカル病院の南側の土塁は、高さ4〜5メートルに及ぶ大規模なものが、約50メートルに渡って、良好に残されている。 土塁とコンクリートの間が低くなっており、ここに嘗て空掘があった事が想定され、延長上に竪掘となって落ちているのが確認できる。 |
| 平林寺跡 |
![]() クランク状の道 (虎口跡?) |
![]() 金鳳山平林寺址 石碑 |
![]() 石碑付近 |
![]() 石碑北西側 (堀跡?) |
![]() 石碑北西側 (堀跡?) |
![]() 石碑北側 (堀跡?) |
| 平林寺遺跡土塁(南土塁) |
![]() 南土塁遠望 |
![]() 南土塁北東面 |
![]() 南土塁北面 |
![]() 南土塁北面と 空堀 |
![]() 南土塁北面 |
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![]() 南土塁切断面 |
![]() 南土塁切断面 |
![]() 南土塁切断面 |
![]() 南土塁北側と 空掘 |
![]() 竪掘 |
| 平林寺遺跡土塁(北土塁) |
![]() 北土塁北面 |
![]() 北土塁切断面 |
![]() 北土塁北面 |
![]() 北土塁北面 |
![]() 北土塁北面 |
![]() 北土塁北面と 空堀 |
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