帝國博物学協会
武蔵國
岩槻城
 所在地 埼玉県さいたま市岩槻区太田
 交通機関 東武野田線岩槻駅下車 徒歩30分
 別  名 岩附城・岩付城・白館城・竹束の城・白鶴城
 略  歴 岩槻城は関東管領扇谷上杉氏の家臣であった太田道灌により長禄元年(1457)に築かれたとも、その父太田道真により築かれたともいう。
岩槻城は古河公方足利成氏に対する城として上杉氏側の備えとして、江戸城川越城などと共に築城され、道灌の謀殺後その甥太田資家が城主となった。
資家以降岩付太田氏の城として受け継がれたが、北条氏の勢力拡大と共にその相手は足利氏から北条氏へと変わっていった。
三代資正のとき、資正とその長男資房との間の確執から、資房の北条氏康への内通へと発展し、資正が追放されて、岩槻城はその支城と共に、北条氏の有力支城へと変化した。
当時の城域は、後の鍛冶曲輪・新曲輪(現在の岩槻公園周辺)で、この周辺の空掘りからは、北条氏の城特有の障子堀遺構が発見されている。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原の陣で、徳川家康軍に攻撃されて落城した。
家康が関東に入封すると、岩槻城には高力清長が配された。元和5(1619)年、2代忠房は遠江浜松城3万石へ加増移封された。
替わって常陸江戸崎城から5万5千石で青山忠俊が入封したが、元和9(1623)年、上総大多喜城2万石に減転封された。
青山氏の後は、阿部正次が小田原城から入城した。
阿部氏は5代に渡って岩槻を治めたが、天和元(1681)年、正邦の時に丹後宮津城9万9千石に転封となった。
替わって下野烏山城から板倉重種が入封したが、将軍綱吉の就任に反対した事から、翌年信濃坂木5万石に減封となった。
同年肥後富岡城から戸田忠昌が入封したが、天和3(1683)年には下総佐倉城に転封となった。
貞享3(1686)年、丹波亀山城から松平(藤井)忠周が入封した。元禄10(1697)年、忠周は但馬出石城に転封となり、替わって小笠原長重が三河吉田城から5万石で入城した。 小笠原氏は2代長煕の時、宝永8(1711)年に遠江掛川城に転封となった。
岩槻には信濃飯山城から永井直敬が入封し、3代に渡って岩槻を治め、直陳の時、宝暦6(1756)年に美濃加納城に転封となった。
替わって上総勝浦から大岡忠光が2万石で入封し、以後8代に渡って大岡氏が岩槻を治め、大岡氏のもとで明治維新を迎えた。
 現  況 現在、本丸をはじめ主要な曲輪は市街地化の波にのまれほとんど残滓をとどめていない。幸い本丸碑近くにはまだいくらかの空掘り・土塁址を散見することができる。
白鶴城址碑のある、旧鍛冶曲輪・新曲輪付近は、岩槻公園として整備されており、黒門・裏門などの建築物が移築されているのをはじめ、土塁・空掘りを見ることができる。

岩槻城址
白鶴城址碑

岩槻城黒門

岩槻城裏門

岩槻城空掘

岩槻城址
に立つ碑

新曲輪碑

新曲輪空掘

鍛冶曲輪土塁

鍛冶曲輪土塁

旧水堀址に整備
された岩槻公園

新曲輪土塁

旧本丸址碑

本丸土塁

本丸空掘・土塁

三の丸碑

大構址(外郭)

岩槻城下の
時の鐘
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