帝國博物学協会
武蔵國
金窪城
 所在地 埼玉県児玉郡上里町金久保
 交通機関 JR高崎線 高崎線 神保原駅下車 徒歩25分
 別  名 太揶城
 略  歴 治承年間(1177-80)に、武蔵七党の丹党の加治家季が築いたとも、元弘年間(1331-34)に新田義貞が築き、義貞の家臣畑六郎左衛門時能が築城したとも言われている。
その後、長井斎藤別当実盛の子孫、定光・定成・定利が居城していた。
天正10(1582)年6月、織田信長が本能寺で明智光秀に討たれたことから、小田原北条氏が武蔵北部から上野に進出、厩橋城の滝川一益は金窪城で北条軍を迎え撃った。
これが神流川の合戦で、一益はこの戦いで大敗、金窪城も落城した。
小田原北条氏が滅んで、徳川家康が関東に入国すると、武田遺臣の武田信俊がこの地に陣屋を構えた。信俊は川窪を姓とした。
元禄11(1698)年、川窪信貞は丹波に加増、転封されて陣屋は廃止された。
 現  況 城址は県の史跡に指定されているが、残された遺構はごくわずかである。
城址碑がある場所は城の中心部に当たる場所で、碑の裏にわずかに土塁が残されている。
案内板には3箇所に土塁が残されていると記されていたが、よくわからなかった。

金窪館入口
案内標石

金窪館址碑

土塁

土塁

土塁

館址碑遠望

土塁

忍保川
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