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| 所在地 | 埼玉県川越市郭町 |
| 交通機関 | JR川越駅下車 国際興業バス グランド下車 徒歩5分 | 別 名 | 霧隠城・河越城・初雁城 |
| 略 歴 |
川越城は長禄元(1457)年、扇谷上杉持朝が太田道真・道灌に作らせたといわれている。以後6代、80年に渡って扇谷上杉氏の居城として栄えたが、朝定の代になると、関東へ進出してきた小田原城を拠点に勢力を伸ばした北条氏に敗れ、川越城を奪われた。 天文15(1546)年、朝定は長年確執を続けてきた山内上杉憲政・古河公方足利晴氏と共に、川越城の奪還作戦にのりだし、8万とも言われる大軍を繰り出した。 城将の北条(福島)綱成は、小田原の北条氏康にこの情勢を報せ、後詰を要請した。氏康は8千の軍勢を率いて救援に赴いたが、10倍の兵力差は如何ともし難く、両軍は入間川を挟んで対峙した。 一方上杉・足利連合軍は、10倍の兵力に慢心したため、軍紀が乱れていた。氏康はこの連合軍に夜襲を仕掛けたため、連合軍は算を乱して逃亡をはかり、朝定は討死した。これが史上名高い川越夜戦である。 その後、川越城は北条氏の北武蔵支配の拠点となっていった。 天正18(1590)年、小田原の陣によって北条氏が滅ぶと、関東には徳川家康が入封した。 川越城には家康の家臣、酒井重忠が1万石で入城した。 慶長5(1600)年、関ヶ原合戦に勝利した家康は、翌慶長6年に重忠を上野厩橋城3万3千石に移し、川越城には駿河田中城より酒井忠利が2万石で入封した。 寛永4(1627)年、忠利が死去すると、嫡男の忠勝が武蔵深谷城から8万石で入封した。 寛永11(1634)年、忠勝は若狭小浜城に転封となった。 翌寛永12年になると、老中堀田正盛が3万5千石で川越城に入封、3年後の寛永15(1638)年には信濃松本城に10万石で加増転封となった。 替わって武蔵忍城より6万石で松平(大河内)信綱が入城した。 信綱は知恵伊豆と呼ばれた名君で、老中首座になっている。元禄7(1694)年、3代信輝の時に下総古河城に転封となった。 川越城主となったのは、5代将軍綱吉の側用人として辣腕を振った柳沢吉保で、7万2千石で入封した。柳沢氏は治世中に2度の加増を受け、宝永元(1704)年、甲斐甲府城15万石に加増転封となった。 入替わりで秋元喬知が甲斐谷村城から5万石で入城した。秋元氏は4代凉朝の時、明和4(1767)年に出羽山形城に転封となった。 川越城には前橋城から松平朝矩が入城した。 この時、前橋城は利根川の浸食を受けて、崩壊が進んでいた。そのため、松平氏は前橋城を捨てて川越城に居城を移したものであった。 文久3(1863)年、7代藩主直克は前橋城を修築して、慶応3(1867)年前橋城に移った。 これにより飛び地となった武蔵国内の領地を治めるため、松山陣屋が置かれている。 慶応2(1866)年、松平(松井)康英が8万石で入封、2代康戴の時に廃藩置県を迎えた。 |
| 現 況 |
現在、城址に遺構はほとんど残っておらず、富士見櫓周辺・三芳野神社周辺に土塁が残っているのみである。 本丸跡には本丸御殿が現存しており、家老詰所も現在地に移築されている。 |
![]() 本丸御殿 |
![]() 本丸御殿 家老詰所外観 |
![]() 本丸御殿 家老詰所中庭側 |
![]() 富士見櫓 土塁 |
![]() 富士見櫓 礎石 |
![]() 八幡曲輪 土塁 |
![]() 田曲輪門跡 |
![]() 本丸門跡 |
![]() 三芳野神社 周辺の土塁 |
![]() 川越城下の 時の鐘 |
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