帝國博物学協会
武蔵國
石神井城
 所在地 東京都練馬区石神井台
 交通機関 西武池袋線 石神井公園駅下車 徒歩15分
 別  名 -
 略  歴 豊嶋氏は、平良文を始祖とする秩父氏の一族で、豊島氏の始祖、武常の長男近義が豊嶋太郎と称したのを始めとする。
石神井城の築城は、『新編武蔵風土記稿』元弘年間(1331〜34)にまで遡るとされ、豊嶋泰景が石神井城主となり、ついで弟の景村がに在城したとされる。
当初は一重の空掘・土塁などを廻らした方形館であったと想像され、現在残されている主郭部がこれに当たると考えられる。
石神井城が、現在残されている規模とされたのは戦国期である。
文明5(1473)年6月、関東管領上杉顕定の家宰、長尾景信が死亡した。
顕定は、景信の弟、忠景を跡継と指名したため、景信の嫡子景春はこの処置を不満とし、敵方の古河公方足利成氏と結び、文明8年(1467)8月、鉢形城で蜂起した。
扇谷上杉氏の家宰、太田道灌はこの処置に警鐘を鳴らしていたが、その道灌が駿河今川氏の内紛調停のため、江戸を離れた隙の事であった。
道灌に武蔵の支配を奪われつつあった豊嶋氏も景春方となって挙兵した。
駿河から帰った道灌は、景春方の諸城を攻略し、文明9(1477)年、平塚城攻撃を皮切りに、豊嶋氏攻略を開始した。
道灌は、平塚城救援に駆けつけた、石神井城主豊嶋泰経を、江子田・沼袋で撃破、その勢いで石神井城を包囲し、愛宕山に陣を構えた。
数日に及ぶ攻防が続いたが、遂に石神井城は落城し、泰経は闇にまぎれて城から落ち延び、弟豊島泰明の篭城している平塚城に落ち延び、石神井城は廃城となった。
なお、落城に関して、城主の娘照姫の伝説など、様々な伝説が伝えられている。
 現  況 城址は石神井公園三宝寺池畔に残されているが、主郭部分は保護の為に鉄柵で囲まれており、中を見る事はできない。
城址碑は、主郭下の池畔に建てられている。
城址の範囲は、主郭のある台地を中心に西・南の方向に広がっており、北側は三宝寺池に守られた、天然の要害の地である。
現在氷川神社のある場所がニ郭に当たると考えられ、三宝寺のある場所も郭であると考えられる。
道場寺と三宝寺の間の道路は、東側の空掘遺構である。
三宝寺池畔には細長い腰郭状の郭があり、ここにも土塁遺構らしきものが残されている。

石神井城遠望

石神井城主郭下

石神井城址碑

主郭土塁

主郭空掘

主郭空掘と土塁

主郭空掘

主郭空掘と土塁

主郭空掘と土塁

主郭空掘

主郭小口土塁

主郭土塁

ニ郭と主郭土塁

竪堀跡の道

腰郭土塁

腰郭土塁

ニ郭付近

ニ郭付近

東側の空掘

東側の空掘

東側の空掘

名主屋敷長屋門

三宝寺池対岸
より城址を望む

豊嶋一族墓
(道場寺内)
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