帝國博物学協会
武蔵國
滝山城
 所在地 東京都八王子市滝山町
 交通機関 JR中央線 八王子駅下車 多摩バス滝山城址下下車 徒歩5分
 別  名 -
 略  歴 滝山城は、大永元(1521)年、武蔵守護代の大石定重が築いたといわれている。
この頃、関東では古河公方足利成氏・関東管領上杉氏と小田原城を本拠として、関東平野を狙う北条氏が対立していた。
大石氏は、関東管領上杉氏に仕えており、高月城を本拠としていたが、この時本拠を滝山城に移している。
天文14(1545)年、関東公方足利晴氏・扇谷上杉朝定・山内上杉憲政が連合して、川越城を包囲した。
籠城6ヶ月、翌天文15年4月、連合軍は援軍を率いた北条氏康によって撃破され、武蔵から上杉氏の勢力が駆逐された(川越夜戦)。
これにより、上杉氏の支配下にあった武蔵の武将の多くは、北条氏に従属していった。
大石氏の当主は、定重の子定久であったが、永禄2(1559)年、自らは隠居して戸倉城に退き、北条氏照を養子に迎えて家督を譲った。
大石氏を継いだ氏照は、滝山城を拡張整備した。
永禄11(1568)年、甲駿相三国同盟が破れると、北条氏と武田氏の関係が緊張状態に入った。北条氏は、甲斐からの進撃ルートにあたる拠点の防衛を強化し、信玄の侵入に備えた。
翌永禄12年、武田信玄が北条氏の領国に侵攻を開始、9月2日には滝山城を望む拝島付近に着陣し、滝山城攻めを開始した。
武田勢は、滝山城を猛攻し、三之丸まで落としているが、北条氏照が守る滝山城が堅城であることから、滝山城の攻略を諦め、兵を小田原城にすすめた。
戦後、氏照は、滝山城の防衛力増強の限界を感じて、新たに武田氏に対応するための新城築城を決意し、八王子城の築城を開始した。
氏照は、天正12(1584)年、本城を八王子城に移し、滝山城は廃城となった。
 現  況 城址は多摩川を望む丘陵上に築かれており、一部私有地になっている場所もあるが、その多くが滝山自然公園として開放されており、遺構も大変良好な状況で残されいる。
城址は、一見しただけで、整備時期を2期に分類する事ができる。
第一整備期(大石氏築城期)に整備されたのは、本丸・中の丸の主郭部分である。
この2つの郭は、それぞれの山の頂きを削平して整備されており、築城当初には、現在残る内桝形なども築かれていなかったと考えられる。
第二整備期(北条氏照拡張期)には、主郭の桝形空間の整備、二之丸を主戦場とする防御線の構築と、水源の確保に伴う大手筋の郭(三之丸・小宮曲輪・千畳敷)の構築が行われていると考えられる。
特に二之丸は、三ヶ所ある虎口が内桝形を形成しており、その外には馬出しが設置されている。また、お互いの桝形同士が、帯曲輪で結ばれているため、一箇所桝形を攻略したとしても、別の桝形から別働隊を編成して、反撃可能なシステムを構築している。
大手口は、三之丸・小宮曲輪に挟まれて場所に設けられており、搦手口は本丸・中の丸間の堀底道から北側に向かって開いている。
滝山城には、畝掘・障子掘など北条氏特有の堀は見られないが、様々な方向の曲輪からの横矢が仕掛けられており、北条流築城術の粋を凝らして築かれている。
なお、滝山城には、無数の帯曲輪・腰郭などの小曲輪が存在しているため、縄張り図には、写真参照時にわかりやすいように数字を記入しました(本文中の説明は、フォントの関係で@の郭を(1)の郭と記載します)ので、縄張り図と併せてご覧下さい。
(1)の曲輪 滝山城最南端の曲輪で、大馬出((2)曲輪)の前面を防御する曲輪。西南に虎口が設けられており南・東側には空掘・土塁を備えている。 曲輪内中央より南側およそ1/3の場所に、仕切土塁が設けられている。

(1)曲輪南空掘
と土塁

(1)曲輪南空掘
と土塁

(1)曲輪虎口と
土橋

(1)曲輪虎口

(1)曲輪南土塁

(1)曲輪南東角
櫓台土塁

(1)曲輪東側土塁

(1)曲輪東側土塁

(1)曲輪仕切土塁

(1)曲輪郭内

(1)曲輪東側土塁

(1)曲輪仕切土塁

(1)曲輪郭内

(1)曲輪北東角

(1)曲輪北東角
(2)の曲輪(大馬出) 二之丸南面の馬出しを防御する曲輪で、(1)曲輪の北側に位置する。南西側に虎口が設けられており、虎口前面の土橋には、櫓台より横矢が仕掛けられている。

大馬出南空掘

大馬出東空掘

大馬出東空掘

大馬出東空掘

大馬出東空掘
と土橋

大馬出東空掘

大馬出東土橋

大馬出東虎口

大馬出内

大馬出南東
櫓跡

大馬出南土塁

大馬出南虎口

大馬出南土塁

大馬出南土塁

大馬出西空掘

大馬出西空掘
(3)の曲輪 南東側に伸びる尾根の先端に位置する曲輪。今回は訪問できておらず、写真点数が少ない。

(3)曲輪西南側
土塁
(4)の曲輪(刑部屋敷) (3)曲輪の北側に位置する曲輪で、家臣屋敷と考えられている。南東側の曲輪群の西側、一段下がった場所が通路となっているため、この曲輪から横矢を射掛ける構造となっている。

刑部屋敷入口

刑部屋敷入口

刑部屋敷郭内

刑部屋敷土塁

刑部屋敷南西面
土塁

刑部屋敷郭内
と信濃屋敷境土塁
(5)の曲輪(信濃屋敷) (4)曲輪の北側に位置する曲輪で、家臣屋敷と考えられている。信濃といわれる家臣は、大石信濃守かもしれない。 屋敷址はかなり広大で、北面は二之丸の馬出しに面している。

桝形土塁

桝形土塁

桝形土塁

桝形土塁

桝形土塁

桝形土塁

桝形土塁

桝形土塁

桝形土塁

桝形土塁

桝形土塁

桝形土塁

大手口・小宮曲輪・三之丸
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