帝國博物学協会
陸奥國
浅瀬石城
 所在地 青森県黒石市浅瀬石
 交通機関 弘南鉄道黒石駅下車 弘南バス 高賀野下車 徒歩10分
 別  名 浅石城
 略  歴 浅瀬石城は、仁治元(1240)年、南部氏の一族、千徳伊予守行重によって創建されたのが、浅瀬石城の始まりである。
浅瀬石城は、南部氏の本拠三戸・七戸から山間の道を西に向かって津軽平野に出たところに位置しており、南部氏にとっては津軽支配の拠点であり、交通の要衝であったため、元応2(1320)年にも城を改修、拡張されている。
更に文安元(1444)年頃には、北側に代官館が築かれ、現在見られる浅瀬石城の状況ががほぼ整ったと考えられる。
永禄4(1561)年、10代城主千徳大和守政氏は、大浦為信と同盟を結んで、南部氏支配に叛旗を翻した。
この時、大浦為信との間に、津軽統一後これを二分して支配する事を約したと言われており、この盟約に従って天正3(1575)年、大光寺城を攻略している。
天正13(1585)年には、千徳氏の分家ではあるものの、主家南部家に忠節を尽くして、頑強に抵抗した田舎館城の千徳掃部政武を攻略している。
南部信直は、千徳氏の謀叛が明確になると、兵力を送って浅瀬石城を攻撃したが、千徳氏の頑強な抵抗で、城を落とす事ができなかった。
天正18(1590)年、豊臣秀吉の小田原征伐に参陣した大浦為信は、正式に津軽地方の独立を認められ、豊臣大名としての位置を確保した。一方千徳氏には、文禄3(1592)年2月に、領地を「平賀郡の内三千石、田舎郡の内千石と比内白沢以南の地三千五百石」と減じると共に、家臣を150人まで減らして、為信に従う様に強制した。
政康は、永禄の約に叛くとして、大浦を退去し、千徳氏と大浦氏は臨戦状態に入った。
慶長2(1597)年、遂に為信自ら大将となり、2500の軍勢で浅瀬石城を攻撃、政康は三度突入して三度撃退したが、遂に2月28日に自害、浅瀬石城は落城して廃城となった。
 現  況 城址主郭・二郭など主だった曲輪は、林檎畑と民家の敷地となっており、見学する事はできない。
館神社前に、城址碑・案内板・侍屋敷跡の標柱などが立っている。
案内板については縄張り図らしきものと、鳥瞰図と2枚あったが、縄張り図は全く読み取れず、鳥瞰図についても、文字を読むのは難儀を強いられる状態である。
城址碑の裏側には、本丸と二之丸を分ける空掘跡を見ることができる。また本丸東側(城址碑側から見ると裏側にあたる)には、立派な空掘が残されており、台地を掘り切っているのがよくわかる。

城址碑付近

浅瀬石城址碑

館神社

侍屋敷跡標柱

案内板

空掘

ニ郭付近

主郭西北角

主郭北面

主郭東面空掘

主郭東面空掘

主郭東面空掘

主郭東面空掘台

主郭上

主郭上

ニ郭東側

ニ郭東側
 閑話休題 津軽じょんから節について。
慶長2(1597)年、大浦為信が浅瀬石城を攻撃した際、千徳氏菩提寺の神宗寺の常縁和尚が、主家の必勝を仏前で祈りつづけていた。
大浦勢は、神宗寺に押し寄せて、乱暴狼藉を働いたため、和尚は山伏姿となって応戦し、血路を開いて逃げ落ちようとしたが、多勢に無勢、捕らわれそうになったため、白岩の断崖から浅瀬石川に身を投じて生涯を閉じた。
翌夏、子供たちが川原で水遊びをしていると、砂の中から変わり果てた常縁和尚の遺体が上がったので、村人たちはお墓をつくって手厚く葬った。
そのため、遺体が上がった川原を「常縁川原」と呼び、和尚の供養のためにこの川原で即興の唄をうたい、盆踊りを踊った。
この時の唄が「じょんから節」であり、「常縁川原」も「上川原」となり、更にじょんからと呼ばれるようになったとのことである。

じょんから節
発祥の地碑
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